「ブルグミュラー25の練習曲」と「記憶」の「イメージ変換」と手指へのフィードバック。

僕は小学校5,6年生の2年間だけピアノを習っていた。2年でバイエルをなんとか卒業し、本来ならば「ブルグミュラー25の練習曲」に進むところ、教本を開かずに27年の時が流れた。…気取って書いたが要するに、最近ブルグミュラーを始めた(笑)(※2022年11月上旬)

ショパンのポロネーズ6番や幻想即興曲を現在必死で練習してる身としては、ブルグミュラーは簡単だと思ったが、意外と難しい。一曲一曲の奥が深いし、どの曲にも「難所」があってテクニックがないと弾きこなせないようになっている。一週間で最低でも一曲仕上がるだろうと思っていたが思う様に進まず、どうしても上記の難しい曲の練習の方に気が向いて時間をかけてしまう。よってブルグミュラーの練習があまりはかどっていないのが現状である。

しかし、ブルグミュラーという教本にはいい曲がたくさんある。プロのピアニストでもブルグミュラー全曲を弾いた動画や音源を公開してるくらいだ。ぼくもいずれは全曲を修めたいと思っている。

ブルグミュラー25の練習曲。通して聴いてみると、その中に「どこかで聴いたことがある」という曲がいくつかあった。そしてそのどれもが、小学校の時にクラスの女の子が休み時間に弾いていたものだった。僕的に特に印象深く記憶に残っていたのは、2番「アラベスク」15番「バラード」25番「貴婦人の乗馬」の3曲だ。「アラベスク」と「貴婦人の乗馬」は結構有名なので知っている方も多いのではないだろうか。15番「バラード」に関しては「これってブルグミュラーの曲だったのか…」と30年近くの時を経て初めて知るに至った。それと同時に、この水準の楽曲を小学生で難なく弾きこなすというのは相当凄い子だったんだなと素直に思った。

ピアノを弾くにあたって、作曲者はどのような気持ちでこの楽曲を作ってタイトルをつけたのかを考えたり、その作曲家が生きていた時代や国、歴史や情景に想いを巡らすのはとても大切なことだ。

ブルグミュラー3番「牧歌」という曲がある。これは、その名の通り「牧場」がテーマの曲なのだろう。とても穏やかな1曲だ。広く草原が広がっていて、車の音も人の声もしない。いい天気で暖かくそよ風が吹いているような静かでやさしい牧場の午後というようなイメージを僕は持つ。

僕は、父親の仕事の都合で小学校の時に一度、どん底の田舎に住んだことがある。

その当時住んでいた社宅周辺には駄菓子屋以外、コンビニもレストランも商店もなく、ビルも会社もない。車もほとんど走っていないようなところだった。とても静かで、近くに広い草原や森、公園があった。3番「牧歌」を練習する時にはいつもその当時の光景が目に浮かぶ。その光景とイメージをなんとか手の表現に落とし込もうと努力するお陰でか、自分の中ではなんともいい感じに弾けているように思っている。

「記憶」を「イメージ化」してそのイメージを指の「強弱や緩急」に反映させる。この作業は音楽を嗜む方ならば皆やられているはずだ。そしてこれこそが曲に対しての弾き手の「解釈」であり、ここの部分が上手く演奏にフィードバックされることで素晴らしい感動を生むのだろう。

だが弾いていて思ったが、「記憶」と「イメージ」は数珠のようにその先に繋がっていて、まるでディシジョンツリーのようだ。気を付けないと際限なく記憶をどんどん追ってしまいさらにそこに思考が入り込んで脇道に反れて、どんどん精神が手指から離れて遠くにいってしまうことがある。

どういう事かというと、例えばピアノを弾きながら、

①小学生の時に住んでいた地域の事を思うとしよう。(思い出を手指運動イメージに変換中)→

②懐かしいな、その当時遊んでいた人達は今どうしているだろうか。(①の過去を深く思う)→

③そういえば今は新幹線が通ったそうだ。昔は特急だった。おばあちゃんが電車で来てくれたな。(①②と同じ時間軸の過去をさらに深く思う)→

④今年の正月は実家に帰るとしても去年と比べて新幹線は混むだろうか。(別の時間軸の過去を思い、思考が混じる)→

➄去年の今ごろふるさと納税でお肉を頼んでいたな。(④と同じ時間軸の過去を深く思う)→

⑥去年の暮れに食べたすき焼き美味かったな。なんだかお肉食べたくなってきたな。今日はお肉を食べよう。(④➄と同じ時間軸の過去をさらに深く思い、具体的な肉のイメージと記憶、欲求が強く起こり、最終的に晩御飯の献立が決定される…)

こう見ると、過去の良き思い出を手指の運動イメージに反映させようとしているのは最初の①の部分だけである。それ以外は記憶のイメージを演奏に反映させるのには不必要なエッセンスだ。

「記憶」をもとに「イメージ」を作りそれを演奏にフィードバックするならばせいぜい①、②の「記憶の深さ」くらいまでだろう。それ以上「深さ」が増したり、別の時間軸の記憶の引き出しに飛んでしまうと、記憶を追いかける方に脳のワーキングメモリを多く使ってしまい、手指の随意運動と精神に解離が生じてきて、演奏が「心」の入っていない作業的なオートマチックモードになるか、崩れてメタメタになって止まってしまうかのどちらかの結末を迎える。

要は簡単にいうとこの現象は集中していない状態となる。いや、正確には、「記憶を追う事」に集中している。

ピアノ演奏というのは、非常に高度な脳と精神、身体の活動なのだ。

身体を意識的に動かすことを随意運動という。随意運動を行うにあたって、まずは運動の意志が起きる。次に、運動の計画書を作成して脳の運動領域における総司令官に見てもらって許可を得る事で、総司令官から関係各所に指令が行き届き、筋肉や神経はその命令通りに動く。計画書から少しずれたり間違うこともあるが、その都度修正と微調整がなされ、その動きを学習しながら運動を遂行していく。という流れになる。

※詳しくは下記に記す。

皮質連合野(運動の意志決定)

  ↓

運動前野、補足運動野、大脳基底核、小脳

(どの筋肉をどれくらいの強さでどの順番で働かせるかのプログラム作成)

  ↓

一次運動野(最終的な運動指令を発令)

  ↓

脊髄、脳幹のニューロン

  ↓

随意運動実行

※運動の際に、体性感覚によるフィードバック調節や、体性感覚・平衡感覚の情報を受けながら運動を調節する小脳を介する神経回路が働いて外界の変化に対応した運動が行われる。

ピアノに関してはこれプラス「情動」、「記憶」も大きく関わっている。

記憶や情動の管轄は脳の一番奥にある「大脳辺縁系」というセクションだ。ピアノ演奏における指の随意運動は実に複雑だが、それに大脳辺縁系も絡めて手指の随意運動にフィードバックするわけだからそれはそれは素晴らしく高度な働きなのだ。

まとめると、正確な位置に素早く指を置くという熟練した随意運動というベースがあり、その上に「情動」を過去の「記憶」とリンクさせて「イメージ」から「運動計画書」を作り、それを脊髄を介して神経にのせて末梢の手指の動きに反映させる。まさに「心技体」の作業となる。そんなことを脳と身体は毎秒行っている。限られた脳のワーキングメモリをフルに使って「演奏」を行うので、1ミリもメモリを無駄にできないのだ。なのでピアノを弾いている時は、本筋から逸脱した回想をしたり、少しでも余計な事を考えてはいけない。