難治性症状について。

当院は難治性症状に対して徹底的に向き合っていきます。

施術内容としては、マッサージ、筋膜リリース、トリガーポイント、等尺性収縮法、体軸調整、ストレッチなどのベーシックなものから、鍼、電気鍼、響きを与える鍼、経絡治療などの東洋医学的なアプローチ、その他、無血刺絡、刺絡など特殊な施術法も症状に応じて行います。そして、それらの施術を支える基礎となる、東洋医学の四診を通じた患者様との「対話」にも重きを置いています。

私は臨床家として日々、あらゆる施術法と施術理論、一般臨床医学の知識の奥行きを広げ、練度向上に努めています。ブログに症例集や、日々の臨床での気付き、知識などを書いていますのでよければご覧ください。

当院で改善が見られた症例の一部。

急性腰部捻挫(ぎっくり腰)、急性背部捻挫(ぎっくり背中)、頚部捻挫(寝違え)、頚椎症による手の痺れと頚肩の痛み、数年治らなかった顎関節症、変形性膝関節症による膝の痛み、外側上顆炎(テニス肘)、内側上顆炎(ゴルフ肘)、肩関節周囲炎(50肩)、腱板損傷による肩の痛み、アトピーによるひどい痒み、三叉神経痛による顔の痛みの後遺症、片頭痛、筋緊張型頭痛、後頭神経痛、群発性頭痛、アルコールによる血管拡張型頭痛、腱鞘炎、足底腱膜炎、高血圧、原因不明の背中の痛み、頻尿、夜間頻尿、不眠、筋挫傷、脊柱管狭窄症による痛みと痺れ、レイノー病による指の痛み、ストレートネック、頸椎ヘルニアによる首肩の痛み、突発性難聴後の耳鳴りと難聴、むずむず脚症候群様症状、アレルギー症状、肺癌ステージⅣの激しい背中の痛み、起立性調節障害、機能性ディスペプシアによる胃部不快感と消化不良、過敏性腸症候群、逆流性食道炎、更年期障害による種々の症状、進行性核上性麻痺による突進歩行の一時的な緩和、抗癌剤治療中の激しい吐き気と浮腫みの緩和、コロナウイルス後遺症の倦怠感と胃部不快感、コロナワクチン後遺症の不定愁訴、など。

一般的な怪我や一過性の症状と違い、慢性的で難治性の不定愁訴となると、治癒までの道のりは長く、それらに対する施術法や施術理論も一筋縄ではいかない事もあります。ましてや、加齢や難病などによる非可逆的なケースにおいては「治る」事が必ずしもゴールではない場合もあるでしょう。

しかし時として難治症状といえども、ものによってはボタンの掛け違いを直しただけとか、本来嵌るはずの位置に歯車を嵌めてあげただけなど、ちょっとしたきっかけで治癒のアルゴリズムが動きだして症状が快方に向かうケースもあります。それすなわち、一見複雑に見えるけど実は単純な事が原因で症状が起きていたという事です。

症状緩和を志すにあたっては、西洋と東洋の両医学的知見の他に、患者様の生活環境をひっくるめて、お身体を包括的に捉えていく必要があります。そしてその中で、症状を起こしていた真の原因は「どこ」にあって、それが「何」なのかをなるべく早く正確にみつけてそこを改める事が肝要であると私は考えています。

以下に私が考える病の起こりと、対処法について書いていきます。

病の起こりとカオス理論。

「カオス」とは、簡単にいうと「秩序」と「無秩序」が入り混じっている状態です。私は、人が生きていく上で生じる怪我やあらゆる病、不調の全ては「カオス」により生じると考えています。

ここで私が言うカオスとは、「秩序あるストレス」と「秩序なき抽象的なストレス」です。「ストレス」と書きましたが、このストレスには「負荷」とか「負担」、「苦痛」、「攻撃」などの意味合いも込めています。

「秩序あるストレス」

「秩序あるストレス」とは何かというとまずは、怪我における「直達外力」がこれにあたります。~㎏の物が高さ~㎝の地点から~m/sの速度で足趾に落下した。それにより足趾に直達外力が作用し打撲、もしくは不全骨折を起こした、という具合です。この物質世界において身体にかかる物理的な外力の全てに「秩序」があります。

オーバーユーズ、職業病など繰り返しの「介達外力」にも当然「秩序」があります。例えば私は10代後半から臨床の仕事に携わっており、いつも中腰で患者様の腰をほぐしたりしているため、昔から慢性腰痛気味です。これも、腰椎及び腰部椎間板に一週間に6日、一日に7~8時間、~㎏の負荷が毎度毎度一定のリズムでかかり続ける事で腰椎の変形を起こすと同時に、椎間板がすり減り、筋肉にも負荷がかかる事で血流が悪くなり、それにより内因性発痛物質が局所に滞り、腰痛症状が出ているという形です。

外力以外にも、体内で起きるなんらかの変化もそこに「秩序」があるならばそれは「秩序あるストレス」です。

例えば、Ⅱ型糖尿病。食事の他に間食の量と頻度が多く、慢性的に血糖値が高い状態が続く事で膵臓から出るインシュリンが効きにくくなり、血液中の糖質をうまく捌けなくなる事で身体に様々な弊害が出るのがⅡ型糖尿病です。そこには、高頻度の糖質摂取による高血糖状態を、インシュリンで抑えきれずに病が形成されるという「秩序」があります。

これらの「秩序あるストレス」には、症状が出る原因が可視化できると共に説明ができ、痛んでいる部位も明確で、なにより本人の自覚があるのが特徴です。ここまで分かっていればいくらでも対策、治療の仕様があるのです。専門医の元で早期発見と正しい対処をしていれば、病の性質にもよりますが症状緩解ではなく治癒する可能性も一段と高くなるでしょう。

では、これらのケースはどうでしょうか。学校でのいじめ、職場でのパワハラ、セクハラ、家庭でのモラハラなどを受けることにより体調を崩してしまった場合。

これらは明らかに人為的な害です。仮に、殴られるなどの物理的なストレスがなかったとしても、定期的に受ける言葉の暴力や、いじめ、虐待などの「不適切な関り」によりストレスを感じる事で自律神経が乱れて何らかの症状が出ているならばそれらは「秩序あるストレス」の部類に入るでしょう。

それが不定期でいつどこから、誰が、攻撃(口撃)を仕掛けてくるか分からないというのであれば「秩序なき抽象的なストレス」の要素もありますが、「学校で」とか、「職場で」など、場所が特定されていたり、「誰」と「誰」が、というように人物も特定しているならば「秩序あるストレス」といえます。戦う力を付ける、もしくはそこのコミュティないし所属から離れる、問題となる元凶の人間と距離を取るなどの対策を講じる必要があるでしょう。

とはいえ、上記のように何が原因かが解っていても社会生活を営む上で逃げるに逃げられず、少しずつ心身ともに削られて何らかの不定愁訴を抱えて病んでしまう方が多いのが実情です。ですが、「秩序あるストレス」の「秩序」、すなわちストレスの「元凶」が解っているだけでも大きいと私は思います。見えない敵と戦っているわけではないですから。

一応理屈的には上記のような、身体に掛る外力や、内臓にかかる負荷、自律神経に作用するストレスの原因となる生活を改めることで「秩序あるストレス」から生じている症状ならば消失及び緩和するはずです。しかし、それらを行っても症状が変わらないようならば、その症状の裏に別のなにかが、本人でも分からない「秩序なき抽象的ストレス」が隠れている可能性に目を向けなくてはいけません。

「秩序なき抽象的なストレス」

原因が分かりやすい「秩序あるストレス」と違い、本当に困ったのは「秩序なき抽象的なストレス」です。

これはその名の通り、いつ来るか分からず、来たのかどうかも分からず、それが本人でも何なのか分からない、言語化、可視化ともにしにくい謎のストレス、負荷のことです。「何が原因かはよく分からないけど辛い」という、客観的に異常を捉えるのが難しい状態です。それが知らず知らずのうちに積み重なって「病」を形成し、気づいた時には確固たる何らかの症状がでているのです。そして、原因を排除しない限りその「秩序なき抽象的なストレス」はずっとかかり続け、それによる症状も出続けてしまうのです。

「器質的な異常がないのに、なんらかの慢性症状が起きる疾患」の類は、基本的に「秩序なき抽象的なストレス」により起きている可能性が高いです。

例えばむずむず脚症候群。これはその名の通り脚がむずむずする不快な症状を呈します。下肢の血管の一部に異常があるとか、ドパミンを作る鉄が少ないと起きるなどと考えられています。しかし、それらの異常がみられないのに症状が出ていたり、標準治療を行っても効果がないという方もいます。

更年期障害の一部もそうです。一般的に更年期障害は、加齢による性ホルモンの急激な減少により様々な自律神経失調症状のようなものが出ると言われますが、失ったホルモンを補充するというホルモン療法を行っても良くならない方も多いです。

機能性ディスペプシアもそうでしょう。これは胃腸などの消化器系に一切、異常所見がないにも関わらず何らかの辛い胃腸症状が出るというものです。

仮にきちんと診断されて上記のような病名が付いているとしても、それに対する現代の標準治療が全然功をなしていない、もしくは他覚的な異常所見や原因が見つけられない場合、その症状の基になっている真の原因に「秩序なき抽象的なストレス」が関与しているといえるでしょう。

または、このようなケースもあります。本人の自我が意図していないし気付かないけれども、脳が何らかの刺激を増幅して捉えてしまい、それに対して体が過剰に反応するという「神経感作現象」なるもの。これは、光や音など通常はなんの害もない、なんらかの刺激が症状発症のトリガーとなってしまうのです。なにがトリガーとなるのかを知り得るまではこれも「秩序なき抽象的なストレス」の部類となるでしょう。

その他に、抽象的な思い込み、それによるストレス、身体への弊害も「秩序なき抽象的なストレス」に入ります。例えば、幽霊に取りつかれて肩が重いとか、○○さんから悪い気をもらったとか、厄年などの影響で身体不調を来たしているというもの。

ここで大切なのはどのストレス(負荷)にも、秩序と無秩序があり、その中で少しでも「秩序なき抽象的なストレス」を「秩序あるストレス」に解釈、解明、変換できるかどうかです。

原因さえわかってしまえば怖くないし、対策を立てる事ができます。

まとめると、器質的には問題のない機能性症状、一見手の付けようがない抽象的な弊害にもできるだけ「秩序」を見い出し、「なぜ脳がそのように判断して体がそれに呼応して症状を出しているのか」を突き詰めて、症状改善、もしくは緩和を目指していくのです。または、脳が「負の思い込み」という悪いルーティンにはまってしまって、それにより常に脳内で間違った情報処理に力を注いでいるような時は「きっかけ」を与えて軌道修正をかける必要があります。

セルフモニタリングのすすめ。

専門医による診断及び標準治療と、東洋医学的な四診と施術の他に、患者様自身にはまずセルフモニタリングをお勧めします。

もしそれがストレスに感じて症状が増悪するならば無理にはなさらない方がいいですが、セルフモニタリングを通じて、現在の「自分自身と生活環境」を可能な限り可視化して記録に残しておくのです。それにより、症状の推移と変化の確認の他、「秩序なき抽象的なストレス」の原因となっているなんらかの「秩序」を見出す事ができるかもしれません。

例えば、不快な胃腸症状の一例。何が原因か分からなかったがセルフモニタリングの結果、乳製品を摂取する頻度が多い事が客観的に解ったとしましょう。実は日本人の8割が乳糖不耐症で、本来日本人は乳製品が苦手なのです。骨折予防、胃腸を整えるつもりでよかれと思って最近、毎日乳製品を多めに摂取していたが、それが弊害となり胃腸症状が出ていたという症状出現の「秩序」がみえたわけです。

セルフモニタリングする具体的な内容は、起床及び就寝時間、天気、食事内容、一日のスケジュール、今日の気分、症状が出た回数、嫌な事やドキドキすることがあったか、その時にどう思ったか、など。

言葉や文字で表現する方法の他に、ペインスケールという方法があります。一番辛いのを10だとすると今日の症状、気分、総合点などは何点か、を毎日書いていくのです。

それらを記録していく事で、先週より今週は点数的に良いとか、長期で見ると徐々に良くなってきているなど、症状の変化を確認できます。

もし、「症状は依然としてあるけど、点数的には良くなってきている」という結果を患者様が目の当たりにしたとしましょう。「辛いけど治ってきているという」矛盾を自分で解消しようとする働きが起きる事があります。それは、「なんだ、治ってきているではないか。点数的には良くなってきてるのに、まだ変わらず辛いと言ってる自分がなんだかばからしく思えてきた」と考える事で、そこから症状が緩和していく事があるのです。

例えば、喫煙者がタバコを吸う目的は「ストレス解消」のためという方が多くいます。しかし、タバコを吸っている期間と、禁煙した期間とでストレスレベルを比べると、禁煙期間の方がストレスレベルが低い事が実験で明らかになっています。人によってはその実験に参加して自分の経験と結果、その事実を知ることで「ストレス解消目的でタバコを吸っていたけど、ストレス解消にならないなら無駄なことはやめよう」と、意図も簡単に禁煙に成功する方もいます。

施術もそうで、最初は施術を受ける時に「痛い」と感じていたが最近では慣れてきて痛みを感じなくなったから、もしかして効いてないのではないか?という声を聞いた事があります。その方の主訴や個人差にもよりますが、「効いていないのではなく、あなたの身体にはもうこの刺激は必要ないという事です。つまり、身体的には治っているという事ですよ。」という一言で、症状が緩和するケースもあります。

確かに、これらは「プラセボ効果」ともいえるかもしれません。しかし、症状を感じているのは脳です。特に、器質的な異常がない不定愁訴の場合、患者様ご自身が脳内でどのように「症状」という情報を処理するかも症状改善にはとても重要な要素と言えるでしょう。

感情のセルフモニタリングと自律神経。

症状が出た時や、強く出た日に何があったか、どのような感情がそこにはあったかを記録することも重要です。恐れ、怒り、憂いなどなんらかの感情がトリガーとなって自律神経を乱してそれが度重なることで、長期不調に繋がっている可能性があります。

こと日本においては、「辛くても笑顔で、何事もなかったかのように振る舞う」という事が美徳とされ「忍耐」、「根性」を持って自分の主観的な感情を押し殺して然るべきとする趣が先進諸国と比べて強いように感じます。

対人関係におけるトラブルに相対した時、全然気にしないという方や、切り替えがうまく出来る方も中にはいるでしょう。しかし、根に持ちやすいタイプの方や、繊細な方は心身ともにかなりの負荷が掛ります。我々人間は、身の危険や何らかの敵対の意志、闘争の気配を感じ取った瞬間に自律神経の内の「交感神経」が優位になります。

交感神経は、敵と戦うもしくは敵から逃げる時に優位になる、いわば自分の命を守る神経です。

しかし、いくら戦いの神経が優位になっている状態とはいえ、家庭や職場などにおいては目の前にいるストレスの元凶となっている相手を暴力で叩きのめすことも、全ての責任を放り投げてその場から一生逃げる事もなかなかできません。結局、トラブルを避けるために自分が折れて、「怒り」や「悲しみ」、「恐れ」、「不安」の感情があるにも関わらず、それをおくびにも出さず心の奥に必死に封じ込めて作り笑いを浮かべるのです。それが非常に強いストレスとなり、自律神経がかき乱されます。

本当の感情を押し殺して偽りの笑顔で取り繕っていても、一度生まれた「負の感情」は生きていて、例えその感情を無視し続けても消えずに残っています。要は、その感情が起こるに至ったきっかけや、出来事が本心では納得がいかず、正常に脳内で処理されずにいつまでも「そこにある」のです。それを無理やり「処理済み」にしようとしているのだけれど、本当の自我は到底納得がいかずに「処理」できないでいるのです。

負の感情が生まれるに至ったその出来事に対する理解と解釈、それに伴う負の感情の鎮静化がなされないうちは、何かとその時の事と感情がフラッシュバックするだろうし、それと共に交感神経が優位になる頻度が多くなり、さらにそれが長期化することで、なんらかの自律神経失調症状などを呈するようになります。具体的には不眠、頭痛、胃の痛み、吐き気、下痢、便秘、免疫力低下、ホルモンバランス異常、高血圧、動悸、耳なり、などです。

ストレス由来の「耳なり」症状というものがあります。これは、例えばストレスがかかる事で無意識的に噛みしめ癖が付いてしまい、咬筋まわりの外力が内耳周辺になんらかの影響を与えて耳鳴りが起きているとか、上記の理由などでリンパ液の水はけが悪くなって蝸牛部分を圧迫することで耳鳴りが起きているなどの可能性があります。あとは、自分に対して浴びせられる罵声をこれ以上聴きたくないとか、その他の苦痛を強く感じないように、自分の脳があえて耳鳴りを起こして聞こえにくくしている、既存の苦痛をごまかしているという、悲しい自己防衛手段の可能性もあります。

東洋医学の陰陽二元論では、左は「男」、右は「女」をそれぞれ表し、五行説で耳は「恐れ」の感情とリンクします。内耳に器質的な異常がなくて耳鳴りが生じている場合の一つの診方として、もしも左の耳鳴りがひどい場合は日常生活で特定の「男性」に対して恐れの感情のストレスを抱えている可能性があります。右耳の耳鳴りならば特定の「女性」。例えば上司、取引先、夫、妻、義理の親、親戚、子供、浮気相手など。

悲しき第三の自律神経「ポリヴェーガル理論」。

「ポリヴェーガル理論」という自律神経に関する理論があります。これは通常、交感神経と副交感神経の二つからなる自律神経にもう一つ、第三の背側迷走神経なるものが存在するという理論です。

人々が健康で平和に暮らしていくには、協調性、和の心、友愛、リラックスの精神が大切です。これらは副交感神経の役割です。皆が優しく、利他の精神を持って、副交感神経が優位であれば争いは起きないのです。ポリヴェーガル理論において心身の健康を維持するためには、副交感神経(腹側迷走神経)が平素から優位である事が望ましいとされています。

しかし、時として人は争うし、地震や台風などの自然現象に対しても怒りや不安、恐怖、憂いの心が生じ、その時は交感神経が優位になります。

上述のように、戦いや緊急事態には交感神経のシステムが優位になり対処しますが、さらにその上の絶望や危機が降りかかってきた場合、交感神経でも手に負えなくなります。その時こそ人は、第三の自律神経である背側迷走神経が優位になるのです。これはいわば、野生動物が天敵に睨まれた時に死んだふりをして窮地を乗り切る時に使う神経です。背側迷走神経が優位になると、徐脈になり、失禁を起こすこともあり、長期化するとあらゆる自律神経失調症状を招く恐れがあります。

かなり悪質で明らかに悪意ある不適切な関り方をされると、人は戦う気力すらなくなり固まってしまいます。「殴ろうが罵声を浴びせようが嫌がらせをしようが、私はあなたが喜ぶような反応を何一つしませんから無駄ですよ」と、「私はただの無機物であり、路傍の石です。石ころをいじめるなんてばからしいでしょ?」と、自らの存在を消して、あたかも体と精神から魂が乖離して、ある種の幽体離脱の様に離れた所から他人事のように自分を眺めるというような身の守り方をするのです。身体と心にかかるダメージを最小限にするために、自らを無機物とする悲しい対処法です…。

当然、背側迷走神経が何度も優位になるような場合は身体にとって良かろうはずもなく、必ず何らかの弊害が出ているはずです。

もしも背側迷走神経が何度も優位になるくらい心身共に追い込まれている場合は、もしかすると「日常生活で降りかかる何か」や周りの「不適切な関り」が犯罪レベルに達している可能性もあります。場合によっては、お身体の施術よりも即座に然るべき公的機関への相談と対処を優先された方がいい事もあるでしょう。

本当に追い詰められた時人は、客観性を失ってしまい、「度を超えた我慢」が当たり前になってしまうことがあります。辛い、苦しい、絶望などを常日頃から感じている方がもしいたら、必ず誰かに相談し客観的な視点をたくさん持つようにしてください。

HSPと大脳皮質とお酒。

HSPとは(Highly Sensitive Person)の略です。日本では「繊細さん」ともいわれます。物事を人よりも繊細に捉えてしまう方々の事です。私自身も自分がそうであると思っております。過剰な「繊細さ」がストレスとなって何らかの不定愁訴が出る方もいます。繊細な気質の方々は、なんらかのライフイベントが症状発症のトリガーとなる場合があります。それがたとえ、妊娠、出産、結婚、昇進、旅行などの前向きなライフイベントだとしてもです。そして当然、プレッシャーのかかるプレゼン、試験、発表会、出向、転職などの後ろ向きのライフイベントの前後でも動揺してしまい、症状が出やすくなります。

ではなぜ「繊細」な気質の方はそうでない方と比べて物事をセンシティブに捉えてしまうのか。

一つとして、このような方々は、突然「今日空いてる?」と、聞かれるのが困ります。なぜなら、誰とどこで何をするのかによって「それに合わせた自分」を用意する必要があると考えているからです。いつでもどこでも誰とでも普段の自分でマイペースでいければ苦労しません。しかし、それだと我儘になったり自己中心的になったり、粗暴な言動になりかねない、トラブルになったり人に嫌われたくないので、TPOに合わせて最適な自分の人格を作ってそれを演じるのです。そしてそれを行うのはなかなか神経を使いストレスがかかるし、心の準備期間がいります。なので、先がわからない予定を他者が組んでくるというのがストレスであり、憂鬱になりるのです。しかしその根底には「他者と揉めたくない」または「他者から変に思われたくない」、「トラブルを避けたい」という深層心理があります。

次に、トラブルになりたくないために、やたらと色々な事に気が付いて、気をまわしてしまい疲れてしまうとう方も中にはいるでしょう。他の方が気付かない事に気付くということはいい事ですが、その気付きを生かした先読みの行動と配慮が、すべて思う通りにはいかない事もあります。それがゆえに苦しんだり、恥ずかしいと感じたり、無力感に苛まれたり、空回りしてしまったりするのです。

その他、繊細な方はあらゆる感覚刺激にも敏感で、他の人は全く気にならない光や音などの刺激にも反応して、時として集中できなくなったり、取り乱したり、不機嫌になったりしやすいのです。

HSPの方で「良い繊細さ」が発揮できれば優秀で素晴らしい実力を発揮できるでしょう。しかし、上述のような「悪い繊細さ」が頻繁にでてしまうと、自律神経が乱れて何らかの不定愁訴が出ているという方も多くいます。

これらの事にもし思い当たる方がいたら試してみて欲しい事があります。それは、お酒を飲んだ時にも「繊細さ」のストレスからくる何らかの不定愁訴はあるのかどうかセルフモニタリングしてみて欲しいのです。「私はお酒が飲めない」という方はこの方法は出来ませんが…飲める方は試してみてください。恐らく、お酒を飲んでいる状態では不定愁訴は減弱もしくは消失するはずです。

なぜなら、アルコールを摂取することで大脳皮質を少し鈍らせることができるからです。「何かが気になる」とか、その他五感を通じたあらゆる情報は大脳皮質で処理されます。お酒を飲むとアルコールは血液に溶け込み全身に廻ります。当然、脳にも廻ります。脳にアルコールが入ると働きが多少なりとも鈍ります。少量の飲酒ならばアルコールの浸潤は脳の表面、大脳皮質だけですが、大量の飲酒となると脳の奥深くにある大脳辺縁系にまで到達します。辺縁系には記憶を司る海馬があります。たまに、お酒を飲みすぎて昨晩の記憶を無くしたという方がいますが、これは深酒によりアルコールが大脳辺縁系にまで到達している証拠です。

飲みすぎは絶対に良くありません。それが前提にある上で申し上げますが、この方法は多少の飲酒を行うことで大脳皮質のパフォーマンスを意図的に少し落とす事が目的です。それにより、程よく「気の利かない」状態になるのです。そうすると、いつも気になる事が気にならなくなり、いつも気が付く事が察知しにくくなるわけです。今、相手が不快に思っていないかな…とか、この店内の内装やBGMが好みではないとか、隣のボックスの人たちの会話などがゲストに不快感を与えていないだろうか、などの繊細な事はどうでもよく、ただひたすら脳と身体は侵入してきたアルコールという毒の処理にワーキングメモリを使用します。そのため、生きるために不必要な「気遣い」や「気付き」は当然後回しとなるので、きっと楽になると思います。

そしてなにより、その場に同席している同僚、友人、上司などからもしかすると、「いつもこれくらいの感じていてくれれば助かるんだけどな」とか、「今日は調子がいいね」など言われることもあるかもしれません。それは「皮肉」ではなく、本当にそのくらいでいいのです。当然、行き過ぎはよくありません。が、過度に、自分を良く見せようと思ったり、きちんとしている風を取り繕う必要はないのです。

友人や同僚、上司などにお酒をのみながら協力してもらい、人間関係の距離感、大脳皮質の感度など「理想的な自分のペース」を掴んでいくといいと思います。ただ、飲酒量と頻度には注意してください。

大脳皮質(理性)と大脳辺縁系(本能)。

人は日々、大脳皮質と大脳辺縁系との戦いを繰り広げています。要は、本能である大脳辺縁系を理性脳である大脳皮質が理詰めで抑えてコントロールしているのです。

大脳辺縁系は、快、不快、危険、安全、など、根本的な欲求を司ります。誰だって楽がしたいし、嫌な事はやりたくないです。しかし、そうもいきません。「楽をしたい」と思った時に理性脳は、「今を忍び耐えることで後にメリットがある。むしろ今やりたい放題してしまったらとんでもない事になる」と、理詰めで原始的な欲を司る大脳辺縁系を説き伏せるのです。ここで、説得と抑制に失敗すると場合によっては大事件に発展する可能性だってあるでしょう。なので、理性と本能の健全なパワーバランスがとても重要なのです。

お酒を飲んでいて、急に説教してきたり、怒りだしたり、泣きだしたり、笑い出したりと、性格が変わる人がたまにいます。これらは、本当はいつもそうしたいのですが大脳皮質の強い抑制があるためにできないでいる人達です。それが、飲酒により大脳皮質の力が弱まり大脳辺縁系(本能)が一人歩きをしている状態となるので、その時だけ実行に移す事ができているのです。そのような方々は普段、口と態度に出さないだけで肚ではそう思っているという事です。

どうしても辛い現実を忘れたい(大脳皮質での鋭敏な感覚を意図的に麻痺させたい)からと、お酒に浸る時もあるかもしれませんが、それを何度もやってしまうと癖になり依存症に陥り、身体と人生を壊す恐れがあります。

お酒は基本的に毒です。「飲めば寝つきが良くなる」というのは科学的には間違っています。本人がそう思っているだけで現実は、血圧、脈拍が上り、内臓機能は解毒のために稼働するので体は休まりません。「焼酎は心臓病予防になる」など言われますが、飲まないにこしたことはありません。「酒は百薬の長」の意味は恐らく、ストレス及び不定愁訴の元凶となっている余計な思考や鋭敏な感覚を生む大脳皮質を鈍らせるからでしょう。それが時として医師が治せなかった、原因不明だった不定愁訴がお酒でまぎれて、一時でも治ったと認識しているところからきていると私は解釈しています。

人は誰しも「本能」を抑えて社会生活を営んでいます。そうしなければ社会が成り立たないし、なによりこの法治国家では生きていけないからです。しかし、確実に「本能」は存在します。アーティストの奇抜な振る舞いや歌などのメッセージ、金髪で改造制服を着て無免許でバイクを乗り回す不良学生などに多少なりとも憧れを持つ人は一定数いるし、そのような映画や漫画のコンテンツには需要があります。これは、「自分は絶対にできないけれど、あの人はありのままに生きている」という、現代では封殺されつつある人間の持つ「本能」に惹かれていると捉える事もできます。

普段は抑え込まれているこの「本能」ですが、ここを深く掘り下げて考える事で、一体何が本当の望みなのか?何が満たされていたいのか?などの深層心理がみえてくる可能性があります。それが、何らかの不定愁訴改善の鍵となり、「秩序なき抽象的なストレス」の「秩序」がみつかる場合もあるかもしれません。

脳内と思考、行動の言語化。脳と心の解放。

日常生活、感情、ライフイベントなどのセルフモニタリングの他に、自分自身の脳内と行動を言語化してみる事もお勧めします。

それにより「自分でも解っていなかった本当の深層心理」に辿り着く事があります

「なぜその行動をしているのか」あるいは、「なぜその行動に至ったのか」など、自分の深層心理、心の奥底の欲求が見えてくるかもしれません。もしかしたら、その「心の奥底にある満たされない何らかの欲求」がねじ曲がって、普段の思考に何重にも覆い隠されていて、それを何らかの形で自分を偽って欲求を満たそうとしている結果、不定愁訴がでているのかもしれません。

こんな話があります。

Aさんの腕には自分でつけた火傷の痕と、入れ墨があります。どうやらこれは高校生の時に自分で行ったものだと。「なぜそのような事をしたのか?」と、周囲に問われた時には決まって、「ハクをつけて舐められないようにするためだ」と答えていました。自分でも何度もそう答えていたために、そう思って疑わずにいました。

Aさんには高校の時から今もずっと仲良しの先輩がいます。先輩に合う度、電話で話す度にその火傷の痕と入れ墨の事をネタにされて面白おかしくからかわれています。何度も何度もその事をネタにされ、それを十数年もお決まりのようにネタにされていたある時、「なんでお前そんなことしたの?」といういつもの質問に対していつもの答えをしようとした時にある変化がありました。Aさんは、「ハクをつけて舐められないようにするため」ではなく、「友達が欲しかったから」といったのです。

Aさんは中流の家庭で生まれ育ち、親は転勤族で躾が厳しく外泊は禁止で厳しい門限もありました。そのような中でストレスを抱え、勉強はできず落ちこぼれ、偏差値の低い高校に入学しました。

しかしそこは県内の不良学生がこぞって集まってくるそこそこ悪名高い高校でした。Aさんの同級生は皆、中学生でパチンコ屋に出入りしたり、麻雀喫茶で小遣いを稼いだり、ケンカ、飲酒、喫煙などなんでもござれの絵にかいたような不良青年ばかりでした。

そんな中、彼らの仲間に入って認めてもらうに、今の自分の器量では釣り合わないと考えたAさんは、何を思ったか自分の腕に大きな「根性焼き」を二つもつけて、さらには入れ墨をいれるという突拍子もない行動を取ったのです。火傷も入れ墨も二度と消えない非可逆的な傷です…。

そこから、「なぜ自分の腕を傷つけたのか?」と聞かれるたびにAさんは、「ハクをつけて舐められないようにするためだ」と答え続けていましたが本当の理由は、ただ「皆と友達になりたかっただけ」だったのでした。Aさんはその答えに辿り着くのに実に数十年かかっています。それも何度も何度も数十年に渡って先輩にいじられて、その先輩のいじりが偶然にもAさんを深層心理までの道のりを歩ませ、最後には心の奥底の扉を開けさせたのでした。

当然、傷を付けてもつけなくても、3年間も一緒にいればそれなりに仲良しにはなるわけです。腕に傷を付けたのは紛れもなくAさんの自由意志によるものです。

Aさんは、親にもらった身体を安易に傷つけた事をとても後悔しています。

「本能」と浅はかな「衝動」。もう少し思慮深く考えていたら、何も消えない傷をつける必要は全くないわけです。「危険な奴」と思われるよりも、「面白い」とか、「運動ができる」とか、「変わった特技がある」だけで皆と仲良くなれます。探せばもっといろんな方法があったのに、それを考えたり、努力して力を付けるなどせず、愚行に走ってしまったという話です。

「友達になりたかったから」という深層心理に遂に辿り着いた時にAさんは、身体と心の一部がスーーっと軽くなったと言います。そしてそれは今もずっと続いているそうです。数十年前からずっと脳内で処理されずに残っていた「コールドケース」が解決されてその分、脳内に空きメモリができて軽くなったのかもしれません。

自分の言動の全てに意味があります。食事や運動などそこに深い意味はない通常のルーティンの場合もありますが、少し変わった言動や、癖のある言動の裏には恐らく、なんらかの深層心理があります。そして、自分の行った言動は過去と現在、未来が交差していて、三つとも同時に存在しています。

スマホのメモ帳でもいいし、ボイスメモでもいいので、何か気になる自分の言動や特徴があったら自分自身で深堀してみ事をお勧めします。表面的な、世間と自分を納得させるための「表の理由」と、その奥に隠された本当の「裏の理由」の二つがあります。後者は、本人にも開けさせないように何重にもガードされている可能性があり、一筋縄ではいかない場合もありますが、とにかくディシジョンツリーのように、一つの事から枝葉を伸ばして思考を少しづつ言語化していくのです。脳内の言語化がうまくいくと深層心理に辿り着けるかもしれません。その道のりは複雑で長いでしょうが恐らく、答えは意外と単純なもののはずです。その「本当の答え」を理解して受け止めた時に、過去、現在、未来まで続く脳内の情報処理が終わりを告げることで初めて、脳と心が解放されるのです。

「諸行無常」の本当の意味。

※一応書いておきますが私は無宗派です。しかし、臨床を行うにあたって行き詰った時や、身体と現実を別視点から捉える時に、しばしば仏教の概念、釈迦の教えを参考にすることがあります。

「諸行無常」という言葉は仏教の言葉で、「この世の全ては決して一定ではなく、常に動いている」という意味です。それがゆえに人は苦しむと釈迦は説かれています。

例えば人の心。今日は好きだったが、明日も好きかは分からない。裏切り、略奪、ヘッドハンティングなど、「ブルータスお前もか」という言葉に表されるように洋の東西限らず人の心は絶対に常に同じではありません。

身体の老いもそうだし、物質においてもそうです。形あるものは必ず壊れるし劣化します。素粒子レベルで見れば、どんなに硬い物でもねじれたり動いたりしています。

お金、若さ、人の心、健康、これらを未来永劫、良い状態でキープしておく事は絶対に不可能です。

言い換えると、この世の全てが一定でないならば、本当の意味でそこには「実体がない」ともいえます。だからこそ人は「不変な存在」、「実体」に憧れるしすがりたくなるのです。いつの世も変わらぬ「神の教え」、「神様」、「不老不死」、太古から万国で価値のある「金(ゴールド)」など。「これさえ持っておけば、これさえ信じていれば大丈夫」と思って安心したいのです。

確かに、人生を「濁流」に例えるならば、濁流の中で生き残るには絶対に沈まないし壊れない浮き輪や木の板にしがみつきたくなるという気持ちは分かります。「神」の概念を濁流の世界で例えるならばさしずめ、「絶対沈まないし壊れない豪華客船」でしょうか…。それとも、そもそも海の上にすらいない、「反重力で永久に空中に浮いてる大きな島の様な宇宙船」とか…。

前置きが長くなりましたが、「諸行無常」にはいい面もあると私は考えています。それは、あらゆるものが常に一定でないならば、「苦しみもまた常に一定ではない」ということです。辛い症状や苦しみも未来永劫不変であるということは絶対にありえないし、この現実世界のルール上そのように設定されているのです。

なんらかの慢性的な難治性症状を抱えている方へ。「今の苦しみは未来永劫不変ではない。必ず変わる」この言葉をどうか忘れないで頂きたいです。

「十二支縁起」の独自解釈による病の起こりと消失。

「十二支縁起」とは仏教の概念で、苦痛が起きるプロセスとされています。

「無明」により「生活作用」があり、生活作用により「識別作用」があり、識別作用により「名称と形態」があり、名称と形態とによって「六つの感受機能」があり、六つの感受機能により「対象との接触」があり、対象との接触によって「感受作用」があり、感受作用により「妄執」があり、妄執により「執着」があり、執着により「生存」があり、生存により「出生」があり、出生によって「老いと死」→「憂い」、「悲しみ」、「苦しみ」、「愁い」、「悩み」が生じるというものです。

脳外科医であり仏教を研究している浅野孝雄先生は、この十二支縁起をフリーマンのアトラクター理論を基に、「心の起こりと消失」になぞらえて考えられました。

私はそれを参考にして十二支縁起を「不定愁訴の起こりと消失」に独自に解釈しました。不定愁訴の起こりと消失におけるそれぞれのフェーズを考えていくと、自ずと対応手段の輪郭も見えてくるものです。以下にそれを示します。

※ここから先は私の独自の解釈であり、オリジナルの十二支縁起とは一線を画すものになります。

①「無明」→無知、無防備、無策の状態。

②「行」→生活している上で「秩序あるストレス」と「秩序なき抽象的なストレス」、いわゆるカオスのストレスが心身にかかり続ける。

③「識」→ここで初めて心身の異常を自覚する。

④「名色」→どこの部位がどうなって辛いか。解剖生理学、客観的に。

➄「六処」→どのように辛いか、五感を駆使して、主観的に。

⑥「触」→病むところに手を当てる。自分で治せるかどうか。

⑦「受」→東洋医学、西洋医学による治療が効くかどうか。

⑧「愛」→大事にされたい、愛を持って労わってもらいたい。

⑨「取」→なんで自分だけ辛いんだ、辛くない人間が羨ましい、憎い。又は自戒。

⑩「有」→なぜ痛みがあるのか、人生とはなにか、自分はまだ恵まれている方なのか。

⑪「生」→今の苦痛を受け入れる。苦痛と共に生きる。

⑫「死」→苦痛が消える、気にならなくなる。アトラクターの崩壊。

「無明」は無知であり無策。始まりの真白な状態。これから起きる事がよく解らないから備えようがないのです。何があってどんな事が起きるのかを、短期、中期、長期で予測が出来ればそれに備える事が出来ます。その備えが不十分だから不具合が生じるし行き詰るのです。例えば、なんの知識も準備もなくエベレストに登ると絶対に体調を崩すのと同じです。

「行」は生活する上で発生する体への負荷やストレスのことです。「秩序あるストレス」か「秩序なき抽象的なストレス」、もしくはこの二つが合わさった「カオス」が積み重なって、自分のキャパシティーがいっぱいになった時に不調が起きます。前者は、繰り返し起きる外力や可視化できる負荷。後者は、言葉では説明が難しくなかなか可視化できず、本人も負荷と気付いていないような無意識にも似たストレスや負荷の事を指します。「行」の時点で症状はまだ起きていなく、いわゆる「未病」の状態です。

「識」では、カオスのストレス刺激が脳に入る事で「快」か「不快」か、「安全」か「危険」か、「害」か「無害」かを大脳辺縁系で判断して漠然とした異変になんとなく気付いているような状態です。嫌な予感的な感じに近いともいえます。

「名色」は今、具体的に身体のどこの部位に何がおきているのかということです。いわば病変部位の客観視ができるかどうかです。「秩序あるストレス」による単純な怪我ならばその病変部位はほぼ正確に解るでしょう。しかし「秩序なき抽象的なストレス」による不定愁訴となると、現代医学でも原因部位やメカニズムが良く解らなかったりします。

「六処」は症状の「主観」を表します。内受容感覚との関わりも深いです。「身体のどこで何が起きているか?」ではなく、「身体のどこがどのように辛いか?」ということです。

症状や個人によって、十二支縁起のひと部分が長い場合も短い場合もあるでしょう。

「名色」と「六処」で得た情報を元に、自分で患部をマッサージしたり擦ったり、食生活改善や運動習慣の見直しなど、自分で自分を治そうとするのは「触」の部分です。

それでもだめで薬や手術、治療など西洋医学の介入を受け入れるのは「受」のフェーズです。西洋医学のアプローチで改善しない場合、代替え手段の東洋医学的アプローチの介入もこの「受」の部分です。最新の西洋医学の治療と、それを補う古典の東洋医学の治療理論と技術をもってすれば大抵の怪我やなんらかの急性症状、亜急性の症状は治るだろうし、少なくとも改善の方向へ向かうでしょう。しかし、それらが功を成さない不定愁訴、怪我や病の後遺症などの場合はこの先のフェーズ群が重要となります。

「愛」は自愛と他愛です。時に自分を否定してしまい、治る事を拒否している場合もあるでしょう。自分は孤独、病がある身、人の足手まとい、誰からも必要とされていないなどと思うと、より症状が堅固なものとなります。なので、自分は大切にされている、いたわってもらっているという自覚を患者さんが十分に持てるように臨床家含め周りの人間は努める必要があるのです。そして患者さん自身も「自己肯定感」を強く持つことが肝要です。そのように思える環境つくりも行うべきなのです。

「取」は嫉妬と自戒のフェーズです。なぜ自分だけが辛いのだ、隣人は平気なのに、羨ましい、不公平だ、もう治らないのではないか、と、自暴自棄になることもあるでしょう。この「負」の感情を自ら認めて発散させる事も時には大切だと思います。この感情があって当たり前なのです。むしろ、平然を装って平気でないのに平気なふりをし続ける事で病の持続、悪化を招くのではないかと私は考えます。ただし、わがままはだめです。「取」はわがままをたくさんしてよいというフェーズではありません。

自分勝手で怒りやすく、平気で法律を破ったり、人の悪口ばかり言って常に不平不満があって、いつでもどこでもトラブルを起こすような人間は病気になってしかるべしです。そうゆう人間は自覚がないかもしれませんが、行く先々で人と軋轢が生じるので生きずらく、周りからも恨まれます。

結果、カオスが生まれる頻度が高くなり不定愁訴が発症しやすくなると同時に、治りにくくもなるのです。自己と他者を比べて自分に非があるかもしれないと反省し、他者を通じて自分を見つめなおし、自分が行ってきた負の言動を悔い改めないと、いくら周囲が頑張っても病は決して治らないでしょう。

「愛」と「取」のまとめとして、「愛」では環境を整えて他者からの愛情と、患者さんに「自己肯定感」を持ってもらうという自愛が、そして「取」は気持ちの発散と、自戒が大事な要素です。精神面のストレスからくる不定愁訴は大きく分けて「自己もしくは他者の愛が足りなくて病む」ケース、「自身の性格と行いが悪くて病む」ケースの二つだと私は考えます。その中で「自己肯定感」を持ってもらう事と「自戒」を促す事、の二つを使い分けて行うことで治癒のアルゴリズムが動き出す可能性も期待できます。

「行」と「識」では、生活でかかるストレスをある程度予測してそれに備え、「名色」と「六処」では、病んでいる部分と症状を把握し、「触」では、食生活と運動習慣の改善、身体のセルフケア、「受」では、プロによる治療を受け、「愛」では、他者からの愛情と自己愛、環境整備、「取」は、内面の発散と自戒、これらを行っても症状の改善が見られなくて長引く場合はさらに先のフェーズに進みます。

ここからは、患者さんが自分自身との対話や、精神世界での働きかけなどを通じ、学び、自分なりに納得して進まねばならないフェーズです。

「有」は、患者さん自身が、自分の魂、人生、世界、宇宙、神など抽象的で哲学的な大いなる存在に意識を向けるフェーズです。今までは「どこがどのように辛い」というように体の内部に焦点を当てていました。しかしそれは宇宙規模で見れば小さな小さな視点ともいえます。そうではなく、もっと生命の根源や宇宙の創生、神の存在の有無などに目を向けて見るのです。

要するに、視点を「現実的なミクロ」から「非現実的で抽象的なマクロ」へ移すのです。

あと、ミクロはミクロでも、脳と魂の違いとか、なぜ人間は生まれたのか、など、堀に掘り下げるのもよいかもしれません。(※非現実的なマクロと書いたが、人類の誕生や宇宙の創造、その創造主の存在については解明されていないため、今のところ「非現実的」なだけで、いつの日かしくみが解れば「非現実的」ではなくなる…かもしれない。)

それらの思考と探求の過程において不定愁訴を克服する何らかの心の持ち方や知恵が得られるかもしれません。それに、知る事の喜びや好奇心が神経伝達物質とホルモンを動かし、それらが脳と身体に作用して既存の不定愁訴の感覚をマスキングしてくれるかもしれないというのも一つの狙いです。

人間は心の定まらない時に不幸を感じ、何かに熱中してる時に幸せを感じます。人間の身体と、脳の内部にある精神世界とで比べれば、人間の身体のどこかで起きてる不定愁訴は小さいと言えます。脳と精神世界、思考の奥行きは本人でも自覚できない程に複雑で大きく広い。その広い脳のどこかに不定愁訴改善の鍵があるかもしれません。

「生」は今までの集大成であり、「無明」「行」「識」「名色」「六処」「触」「受」「愛」「取」「有」一つ一つのアトラクターが活性化してそれらが全体的に繋がって大きな大きなアトラクターとなっている状態です。なので、一つ一つのアトラクターの練度が高ければ、恐らく「生」の時点で不定愁訴をなんらかの形で克服できるはずです。逆に言うと、「生」のフェーズにきても不定愁訴が意識に昇り、症状がどうにも辛く耐え難いのならば一つ一つのアトラクターの練度、もしくはどこかのアトラクターの練度が足りないとも考えられます。

※「アトラクター」とは、フリーマンのアトラクター理論の考え方です。例えば、何らかの匂を嗅いだ時に、鼻の受容体がそれを受け止めたことで脳の一部分が活性化して動きだします。これが「アトラクター」です。その後、その匂いの記憶やそれが危険か否か、思い浮かぶ風景など、情報伝達が進めば進むほど脳の至る所にアトラクターが形成され、それらが全部結びついて脳全体が活性化することを「大域的アトラクターの形成」といいます。

最後のフェーズである「死」は症状における大域的アトラクターの崩壊です。すなわち、既存の症状が滅する状態。

仮にこれを足の捻挫で例えるなら、「死」はそれまであった足首の症状がなくなり、普通に痛みなく運動が出来るようになった状態です。圧痛、運動時痛がなくなり、患部を保護していたテーピングやサポーター、ひどい場合はギブスからの解放、消炎鎮痛剤も飲まなくてよく、普通に靴を履いて仕事や遊び、運動が出来るという具合です。しかし、若者の軽い足首の捻挫や擦り傷のように完璧に治るものならばいいですが、不定愁訴や不治の病の場合は「死」の解釈は少し異なります。

僕の祖母はすい臓がんが全身に転位して亡くなりましたが、この場合の大域的アトラクターの崩壊、すなわち病と痛みからの解放を表す「死」は本当の「死」でした。祖母は命ある限り全身の痛みで苦しんでいました。この状態では、愛情、環境整備、治療技術の練度向上、抽象的なマクロ思考などを行っても、それらの練度を上げても治りません。肉体の死を持って、初めて病の大域的アトラクターの崩壊がなされたのです。

祖母のように、しょうがない場合もあるでしょう…。不治の病による大域的アトラクターの崩壊は、肉体の「死」をもってのみ起こされる場合もあるのです。

では、不定愁訴の場合はどうでしょう。例えば慢性頭痛。これは、症状が起きている時もあれば、ない時もあります。だけど頭痛の頻度が多い状態。これを短期的に見ると、「頭痛症状」という名の大域的アトラクターが出きては崩壊しを繰り返しています。なので、一時でも頭痛症状は治っています。

中期で見ると、症状は頻繁にあるわけだからアトラクターの崩壊は起きていないといえるでしょう。

長期で見た場合、これは極論ですが慢性頭痛を数10年スパンで見た時に、現在が例えば30代だとして、そこから50年後、80歳頃まで全く何の変化もなくずっと慢性頭痛の症状は不変であるでしょう?恐らく何らかの変化があり、症状が治まっている可能性は大いにあります。

中期で見た時に、頻繁に症状が出ているならば頭痛におけるアトラクターは崩壊していないと書きました。現実的な打開手段としては、「識」、「触」、「受」あたりの練度を高めるのです。要するに、生活習慣の改めや、繰り返しの潜在的なストレスのあぶり出し、施術や治療が適切かどうかを見直し、磨きをかけることで「死」のフェーズ(慢性頭痛が無くなること)を促進させることができるでしょう。

では、同く不定愁訴の耳なり症状はどうでしょうか。客観的所見に乏しい耳鳴りです。近代的な治療、はたまた鍼治療も受けたが芳しくない場合。

これは「行」、「識」あたりの潜在的ストレスのあぶり出し、「受」(適切な施術が受けれていない可能性)なども注意深く診ていき、練度を上げる必要もありますが、どうにもならない場合は、「有」と「生」のフェーズが重要になってきます。

これは加齢性の耳鳴りも然りです。加齢性の耳鳴りの場合は、音を電気信号に変換する有毛細胞が加齢により壊れていて、それも非可逆的なため基本的に治りません。慣れるしかないのです。

その場合、如何にして耳鳴りの不快な情報を大脳皮質にて認知させないようにシャットアウトするかを模索する必要があります。抽象的なマクロ思想を経て、大きな心と深い理解で耳鳴りを受け入れる、もしくはマスキングする方法が解れば「死」(耳鳴り症状における大域的アトラクターの崩壊)のフェーズに辿り着く事が出来るでしょう。

なので、「死」に関しては、症状を短期、中期、長期で見る事と、その他の十二支縁起のセクションの練度向上と見直しが重要となります。症状の原因となっている「秩序」を見出し、「適切な箇所に適切な施術」を行うことが何よりも重要です。

どんな辛い不定愁訴でも以下に記す3つの事はどうか忘れないで欲しいです。

①短期で見れば症状の大域的アトラクターはその都度崩壊している(症状から一時的でも解放されている瞬間はあるはず)。

②諸行無常。この世の全てのものは常に動いていて、不変ではない。長期で見れば絶対に症状は変わるはず。現状は必ず変わる。

③思考の奥行きは果てしなく深くて広い。熟考と抽象的なマクロ思考の果てに、自分の頭の中に今を生きる鍵が、症状打破の鍵があるかもしれない。自分を信じる事。

最後に、仏教の「十二支縁起」という考え方を浅野先生の言葉にヒントを得て、臨床に応用して考えてみたことは自分としては大きな収穫だと思っています。しかし、現時点では解釈の幅が浅く、まだまだ考察の奥行きがあるように思っています。今後、私も年を重ね経験を積み、今よりも人生に深みが出てきた時には、よりよい解釈ができるようになっているかもしれません。これはあくまで、2023年6月21日時点での私の解釈であることを付け加えておきます。

臨床における「十二支縁起」の独自解釈。 (h5seikotu.com)