意思決定に関わる脳は大きく分けると理性脳と本能(爬虫類脳)の2つだ。
理性脳とは脳の表面全体をカバーする大脳皮質の事で、本能はその奥にある原始的な欲求を司る大脳辺縁系だ。ここは生命維持と本能に直結する部分で爬虫類などの動物にも見られる事から「爬虫類脳」とも呼ばれる。
何かの意思決定をする際、本当はNOを提示したいけど、ゆくゆくの利を考えて嫌々YESを提示した経験はないだろうか?
「本当はNOを提示したい」という意思は「本能」によるものだ。そして、実際の損得を加味した上で本能を抑えてYESを提示するのは「理性脳」の働きによる。本能の判断力はおよそ幼児のそれと同等らしい。眠い、だるい、怖い、嫌い、好き、遊びたいなど、意思決定を単に快不快で判断するといっても過言ではない。
多くの場合、本能と理性脳のせめぎ合い、パワーバランスにより意思決定がなされる。まさに意思決定とは「天使と悪魔の戦い」なのだ。
今、本能を悪魔としたが生存するにあたり、本能はなくてはならない大切な意思決定要因だ。なぜなら五感と感情を通じて瞬時に物理的な害悪から身体を守ってくれるからだ。例えば、変な臭いがする、変な音がする、嫌な感じがするというような何らかの不快感を感じたら踏みとどまり、先へは簡単に進まないだろう。これこそが危機察知と危険回避であり、この逃避反応は本能だから理性を介さずオートマチックで行われる。
理性脳はあれこれ考えて納得して意思決定するので本能と比べるとどうしても時間がかかる。しかし、目には見えない利を、未来と生活を守るのに役立つ。例えば、何度も悔しい思いをして頭を下げて負けを認めつつ、思考を重ねて結果的に天下を取った徳川家康のように。
この二つの意思決定が我々人類の脳に標準搭載されていて、理性脳と本能は文字通りのブレーン(参謀)であり守護神なのだ。
…しかし、果たしてその意思決定における守護神は「本能」と「理性脳」だけだろうか?
それ以外の「何か」に突き動かされた意思決定を今までにした経験はないか?
それは、本能も理性脳も「利なし」「リスク高し」と判断してどちらもNOを提示しているにも関わらず、YESを選択して実行してしまった時だ。そこには何か、強力な「第三の意思決定」が存在するような気がするのだ。
ここで一つ注意だが、パチンコとかのギャンブル依存など脳のドーパミンや嗜癖行動が関与している意思決定は除く。
所謂「わかっちゃいるけどやめられない」という行動。これを嗜癖といい、繰り返される強い刺激により脳が変性をきたした状態でそれすなわち病気なのだ。そこには異常に活性化した報酬系とドーパミンを伝えるA10神経があるだけで、脳内神経伝達物質に支配されている状態なのである。これは除外する。
そうではなく、なんというかもっと人間の根源というか、その人の本質が一瞬垣間見られる瞬間というか、「生物としての本能に反した」決断と行動を何度か見聞きした事がある。
例えば、自分の安全は確保されているのにそれを自ら捨て、危険な状態で今まさに死にかけている他人を助けに行き、他人の命と引き換えに自分が命を落とすという痛ましい事故など…。
…このテーマは本気で書くと重くなる。僕のようなたかだか人生40年程度の人間が扱える話ではない。
なので、もう少し身近であまり重くなく、それでもこのテーマに即した実例を出すことにする。
これは、以前勤めていたとある病院での出来事。そこに、とても神経質で綺麗好きな同僚がいた。僕もその同僚もリハビリスタッフとして働いていて、患者さんをほぐしたり運動したりリハビリ業務を行っていた。患者さんに対する施術は特に指名制ではなく、ランダムで決定される。病院には本当に様々な患者さんがいらっしゃる。
ある日、同僚が施術する事になった患者さんは、「えらく不衛生」な状態だった。
実話なのであまり詳しくは書かないが、本当に何もかもがえらく不衛生だった。
さらに酷いのが、その患者さんは詐欺的な勧誘を施術時間にひたすら仕掛けてきた。
施術をしている同僚は、それはもう心中穏やかではなかった。施術の前に、頭の中では「不衛生」「危険」「不快」「不信」よって「退避」という本能によるプランが提示された。理性脳も、同じように「関わるべからず」と同じようなプランを提示しかけたが、「職務中のため、退避は不可能。よって被害を最小限に抑えて最速で終わらせ、掃除をする」という形で本能と折り合いをつけた意思決定がなされた。
同僚は施術中、何もかもが上の空で、ただただ自分の衣服や身体が汚れないように、後でベット周りなどすぐに掃除できるようにとそればかり考えていたそうだ。
これは理性脳による働きだろう。
しかし、ここである変化が起きた。
腰が痛いと訴える不衛生な患者さんの服をめくり背中を見た瞬間の事だ。背中にはおびただしい数の湿布が所狭しと貼られていた。それを見た同僚は「なんだ、そんなに腰辛いなら早よ言わんかい」と心の中で思ったそうだ。※同僚は関西人ではない。
次の瞬間、同僚は何かに取り憑かれたように一枚一枚丁寧に湿布を剥がし、綺麗に背中を消毒して地肌に対してあらゆる手技を行い、鍼治療を施し、最後に仰向けになってもらい時間をかけてストレッチをして施術を終えた。不衛生な患者さんは、それはもう喜んで「楽になった、ありがとう」と感謝して帰っていった。
施術前は理性脳も本能も嫌がり、両方とも「NO」の意思表示をした。その後、折り合いをつけて理性脳が「最低限の施術で早く終わらせる事」という意思決定を下した。しかし施術開始時に、正体不明の「第三の意思決定」により鶴の一声で「徹底的に施術をする」という方針に変わった。そしてその方針には決して抗えなかった。
この「第三の意思決定」とはなんなのか?なぜ、理性も本能も黙らせる程の力をもっているのだろうか?
第三の意思決定が働くような経験は僕も何度かある。その時に感じたが、第三の意思決定が発動すると、身体も心もほぼ自動運転のように勝手に動いていくような気がした。まさに洗脳に近いような感覚なのだが、「嫌々」ではない事だけは確かだ。
同僚の場合は患者さんの背中のおびただしい数の湿布の視覚情報がトリガーとなった。先に述べたような、自分の安全と幸福を犠牲にしてまで他人に「懸けた」人も、第三の意思決定が発動する何らかのトリガーがあったのかもしれない。
…長くなるので続きは次回とする。次回は、第三の意志決定についての考察に迫る。