嫉妬と哲学。

「嫉妬は貧者の贅沢である」

これは世界的な投資家チャーリー・マンガ―の言葉だ。

嫉妬にかられた支出や、それに費やした時間は生活するのに全く必要のない浪費。

資産に余裕がないといいながらも、それを好んで自ら行うのはある種の贅沢ではないか、という意味だ。

世の中は「見栄を張った不要な出費」であふれている。

他人のブルジョワジーな生活や体験を見聞きすることで、自分だけが遅れをとっている、羨ましい、悔しいという感情が湧く。

「何かしなければ」と焦って衝動的に動いた結果、資産を減らすのだ。

他人と同水準、もしくは出し抜こうとするから愚かな結末を生む。

「人生を破壊する三大要因は、酒、女、レバレッジ」という格言がある。

そして、行き過ぎた「嫉妬」もまた人生を壊す要因の一つとなるだろう。

嫉妬心とはなんなのか

要するに嫉妬とは「いいなあ…羨ましいな」という感情なのだろう。

僕は嫉妬には二つのタイプがあると思う。

一つは「体験の嫉妬」、もう一つは「優劣の嫉妬」だ。

まずは「体験の嫉妬心」が想起されるような例をいくつか挙げてみる。

(1)テレビでレポーターが美味しそうなステーキを食べているのをみて「いいなあ」と思う。

(2)友人から国内の温泉旅館に泊まった話を聞いて「いいなあ」と思う。

(3)他人が高級スポーツカーに乗っているのを見て「いいなあ」と思う。

(4)東京証券取引所の鐘を鳴らすのを見て「いいなあ」と思う。

(5)宇宙に行った宇宙飛行士を見て「いいなあ」と思う。

(6)ハリウッド俳優の優雅な暮らしを見て「いいなあ」と思う。

要するに、「体験の嫉妬」とは「自分もそれを体験したい」という体験にまつわる感情の事。

しかし、上記6つの「体験」にまつわる「いいなあ」は果たして全て同じ性質のものだろうか?

「体験の嫉妬」と三つの種類

「体験の嫉妬」には、「短期的に実現可能」、「中長期的に実現可能」、「不可能」の三つがある。

(1)と(2)は短期的に実現可能だ。

(3)と(4)はどうにか頑張れば中長期的に実現可能であり、不可能ではない。

しかし、(5)と(6)は不可能だ。

※個人差はある。

ここでは、「あきらめず信じて突き進めばどんな夢も叶う」みたいなべんちゃらは使わない。

実現可能性とプラン

「いいなあ」と思う気持ちの次に大切なのは「実現可能かどうか」と「実現に向けた具体的なプランがあるか」だ。

(1)はハードルが低い。毎日とはいかないが、実行可能だ。

(2)も人に依るが、数年以内には実行可能だろう。

(3)と(4)は少しニュアンスが異なる。ポイントとなるのは、ただ単に高級スポーツカーに乗りたい、東証の鐘を叩きたいだけなのかどうか。

刹那的な経験のみならば車はレンタルすればいいし、鐘は通販で似たものを買っていくらでも叩けばいい。あるいは東証の見学会で鳴らせる??かもしれない。※一般的に東証の鐘を鳴らすには会社を立ち上げて上場させねばならない。

だがもし自らが高級スポーツカーを所有する事、代表取締役として東証の鐘を鳴らす事を「いいなあ」と思い実行を志すなら綿密なプランが必要となる。

それどころか、多大な資金、維持費、税金の工面、不測の事態やリスクに対処できる器量などが必要となり、場合によっては大きな苦痛も伴う。

要は「ステータス」か「体験」どちらを羨んでいるかがポイントなのだ。

現実と理想の乖離の程と嫉妬心の大きさ

「体験の嫉妬」は、嫉妬の対象となる行為を自らが実行するまでに要する時間が短ければ短い程、小さくなるはずだ。

なぜなら、その気になればいつでもできるからだ。

人により「高級スポーツカーを所有してそれを維持する事」、「会社を立ち上げ上場させる事」が(1)のステーキのように「短期的に実現可能」な射程圏内に入っている場合もある。

逆に、嫉妬の対象となる行為を自らが実行するまでに要する時間が長すぎる、もしくは不可能な場合、嫉妬心の大きさはどうなるだろうか?

恐らく、実生活と理想の乖離が大き過ぎるとそもそも気にもならないのではないかと思う。

(5)と(6)なんてのはその最たるものだ。

体験の嫉妬心が一番色濃く出る時とは?

嫉妬の対象となる体験がいつでも実行可能な射程圏内、もしくは己と対象の乖離が大きすぎる場合、「体験の嫉妬心」は小さくなると書いた。

では、体験の嫉妬心が強くなる時はどんな場合であろうか?

これは恐らく、自分ではコントロール不可能な何かの力が働き、実行が阻まれている状態の時だと思う。

例をいくつか挙げる。

(1)幼少期、おもちゃ売り場で皆がおもちゃを買ってもらっているのに自分だけ買ってもらえない時。

(2)片方は見逃されたのに、自分だけペナルティが課された時。

(3)面接やお見合いで、イケてない人間が通ったのに、自分は出身大学名のみで除外された時。

(4)行列のできる店で並んでいた際、自分のところで予告なしにサービスが終了した時。

など。※一応書いておくが、これらは実体験ではない。

嫉妬の原因をよく考えれば、自分に過失があるケースもある。

だが、店や国のルール、家の取り決め、それを司る人間の気分などにより、実行可能な事が「不可」とされると憤るし、悔しい。

本来、この憤りと悔しさは、機会に恵まれたライバルに向けられるべきではない。

これの本質は「理不尽」であり、「システムの不完全さ」により生まれた怒りは大元の管理者に向けられるべきだ。

「体験の嫉妬心」が強く燃え上がる時は「なんらかの理不尽」が絡んでいる傾向が高いと僕は思う。

格上に対する嫉妬心

「体験の嫉妬」の対象者と、己の乖離が現時点で大き過ぎるにも関わらず、強い嫉妬心を抱く者も少なからずいる。

対等ではないのに、自分は対等以上だと思いこんでいるのだ。

はたから見ると、嫉妬心にかられての愚かなブラフ、背水の陣で大見栄を切っている単なるビックマウス。

その根底には嫉妬心の他に一部、自身を客観視する力、共感力、自己抑制などを司る脳領域である前頭前野の機能低下、あるいは誇大自己などの要因があるのではないだろうかと思う。

「誇大自己」とは、幼少から思春期にかけての正常な精神発達フェーズに見みられる現象のことだ。

この時期になると、自分が世界の中心に思えたり、万能感、自分が周りよりも秀でているように感じられるようになる。人によっては、思い通りにならないと暴力や破壊行為に及ぶなど衝動性が高くなる場合もある。

誇大自己の多くはしばらくすると自然に落ち着く。

しかし、稀に大人になっても「誇大自己」のフェーズに留まっている者もいる。

誇大自己が長く続く現象は一種の防衛反応であり、それには幼少期の複雑な家庭環境や愛着障害が関連しているという見方もある。

無論、誇大自己が自信に繋がり良い方向に行く場合もあるだろう。

歴史的な政治家や指導者、芸術家などには幼少期における複雑な家庭環境と誇大自己の特徴がみられる人物も多いという。

誇大自己や「体験の嫉妬」が、成功モデルに匹敵しうる実力を養う起爆剤として自身の役に立つことも大いにあるはずだ。

だが、大抵はトラブルの原因となるだろう。

なぜなら「嫉妬」には生物としての「優劣」が絡んでいるからだ。

嫉妬の根源である「優劣の嫉妬」

僕が思う嫉妬の2つ目の性質は「優劣の嫉妬」だ。

これは人が行う「体験や経験に対する嫉妬」ではなく、自分と相手を比べた「個人の優劣に対する嫉妬」の事であり、まさに嫉妬の真髄と言っても過言ではない。

生存と自己実現が脅かされる可能性

「優劣の嫉妬」は、その名の通り「嫉妬の対象者よりも自分が劣っている」事に危機感を持つ事で起こる。

そしてもう一つ「嫉妬の対象者より自分の方が優れているはずなのに、目下の者に権利や機会を奪われるかもしれない」という焦りも「優劣の嫉妬」の起因となる。

この二つに共通するのは、「己の生存や自己実現が脅かされる危機感」だ。

「優劣の嫉妬」は、嫉妬の対象者の存在が自分の生存と人生の最適化を脅かしていると判断した時に発動するのだろう。

F14戦闘機とF18戦闘機

「優劣の嫉妬」は恋愛やビジネスなど、ドロドロしてエグイ内容になりそうなため想定話は割愛する。

代わりに戦闘機の話をする。

パイロットがAIなどで性能が同じと仮定した場合、F14戦闘機はF18戦闘機に空中戦で基本的に勝つことはできない。

そのF18もF35には勝てない。

なぜなら性能に開きがあるからだ。

低性能は高性能にその分野では勝てない。

映画トップガンでは、主人公の才能とテクニック、仲間の援助で番狂わせが描かれているが、基本は逆立ちしても勝てない。

映画ターミネーターもそうだ。

未来から来たサイボーグは、さらにその先の未来から来た液体金属のボディを持つサイボーグに性能面では勝てない。

そしてこれらは生存に直結する。

性能の低い者と性能の高い者がケンカした際、基本的に性能の低い者が負ける。

勝った者は生殺与奪の権利を得る事になる。

性能の低い者が感じる理不尽

F14もターミネーターも機械だが、人間だったら自分よりも高性能な後継機に嫉妬しないだろうか。

そして、逆立ちしても後継機には敵わない事を知った時、「なぜ低性能で生まれてきたのか」という理不尽を感じると思う。

この場合、後継機がいいやつで親友だとしても心のどこかでは優劣を意識するだろうし、嫌ないじめっ子ならばなおさら敵対心は強くなり脅威を感じるだろう。

性能の高い者が感じる理不尽

生まれつき高性能だったとしても、実は陰でめちゃくちゃ努力していたらどうだろう。

毎日、血のにじむような苦痛に耐え、時間と労力を支払って鍛錬に鍛錬を重ねた結果、高性能を維持しつつ伸ばしていたとしたら?

万が一、高性能に嫉妬した多くの低性能の闇討ちにより命を落とした場合、高性能は薄れゆく意識の中で「理不尽」を感じるであろう。

「なぜ、こんなにも努力した自分が恨まれなきゃいけないのか?」「意味わかんねーよ」「悔しいならお前も努力しろよ…」と。

嫉妬には理不尽が絡む

生まれつきの性能や環境性能などの条件は選べない。

高性能もあれば低性能もあり、決して均一ではない。

前世の行いだの、先祖の加護だの、自分であらかじめ空で決めて生まれてきているだの好き勝手に言われるが、確かめようがない。

一言で言うと「理不尽」だ。

先に述べた「体験の嫉妬」も同じ。

自分は休めないのに休んでいる奴、自分は食べれないのに食べている奴、自分ができない事をしている奴。

一見羨ましく見えるけど、今まで一生懸命頑張ったからこそ今休めるし、今食べれるし、今好きな事がやれるようになったのかもしれない。

嫉妬する方も、嫉妬されて逆恨みされる方も「理不尽」を感じている。

嫉妬による理不尽が世界を広げる

もしも自分が低性能であると感じて理不尽を抱くならば、その理不尽を埋めるべく別分野で強みを磨き、自分が勝てるフィールドを見つけるなど動く余地はある。

低性能は決して絶望のみがあるわけではない。

未開拓の分野をみつけて需要を作り、そこで優位性を持てればそれすなわち高性能な存在となる。

そう考えると「理不尽」は世界を広げるために神が意図してこの世に設けたのかもしれない…。

嫉妬深い人間は自問自答を

成功者や高性能を羨む人間は得てして、解像度が低い。

もしも自分が嫉妬しやすい人間ならば、なぜ嫉妬するのか?何を脅威に感じているのか?張り合う意味と価値はあるのか?などを自問自答すべきだ。

解像度を上げて深く考えれば、余計なストレスを回避できる。

そして恐らく疎かになっている、「今、自らがやらねばならない事」に全力で集中すべきだ。

嫉妬される者も今一度自問自答を

嫉妬するのもいけないが、されるのも良くない。

もしも「他者を見下し、己の優位性を世間に知らしめたい」という欲があるなら、それはチャーリーマンガーの言う貧者の贅沢だ。

端からは「嫉妬して理不尽を感じてもらいたいがための振る舞い」のように映る。

そんなものは大抵トラブルになるし、維持に余計なお金がかかるし、絶対に上には上がいる。

どうせ壁にぶち当たり、今度は自らも嫉妬の炎に身を焦がす。

しかし、そうではなくて単純に天性のものや己の努力による器量なのにもかかわらず嫉妬を招いてしまう場合はどうすればいいだろうか。

その時は、解像度の低い人間から離れてそのような環境と人を避けた方がいいと思う。

まとめ

嫉妬心を無くすことで、人生の4分の1は少なくとも最適化できる。

己の優位性を確立するために新境地を見つけたり開拓する事はいい事だ。

脅威となる存在の出現や、解像度の低い人間や環境からは距離を置くべきだ。

しかし、毎回ライバルが登場したからと戦線離脱して新たな優位性の確立を目指すのも無理がある。

入念に準備をして時が来たら戦いを仕掛ける、あるいは受けて立つのも一つの手だ。

その時は、そもそも戦う価値があるか、なぜ戦うのか、などを深く考えて決断を下さねばならない。

優劣は生存に直結する。

出来る限り、資源と財産、健康を消耗する戦いは避けた方が無難だ。