コクワガタの寿命と哲学 その2。

令和5年9月の中旬、家で飼っていたコクワガタがあの世へ旅立った。

もう1年くらい生きれるかと思ったがだめだった。

死ぬ3日くらい前から、土に潜ったり木に登ったりなどの大きな動きができなくなった。

そこから程なく、水を飲んだり餌のゼリーを食べることもできなくなってしまった。

兆し。

少し前から、顔に土のようなものが付いていることは確認していた。

てっきり餌のゼリーが顔に付着してそれに土がついているのだろうと思っていた。

しかしそうではなかったようだ。

恐らく顔の組織が「傷んで」しまっていたのかもしれない。

ここでいう「傷む」とは、植物や野菜の一部が枯れているような状態。

それにより正常に栄養や水分を経口摂取できなくなり衰弱してしまったのだろうと思われる…。

衰弱。

衰弱に気づいてから1日経つと身体がほとんど動かなくなっていた。

胴体部分を指で軽くなでると、口元の触覚と脚が僅かに動くだけであった。

数ヶ月前は僕の指がその身体に近づくだけで大顎を大きく開いて威嚇してきた。

その元気がもうない…。

最後の日。

もう1日経つと、口元の小さな触覚以外は完全に動かなくなった。

まるで四肢が体幹に収まるように全体的に丸まっていた。

この状態を見た時僕は、恐らく今日中に死ぬと本能的に感じた。

手のひらに乗せて少しだけ水滴を垂らして水を飲ませようと思ったが全く飲もうとしない。

そこから一晩経って朝になり、仕事に行き、帰宅した。

看取り。

もう死んでしまっているだろう…と思っいた。

覚悟を決めて見て見たら、なんとまだ口元の触覚がかすかに動いているではないか!

もう一度優しく手のひらに乗せて、最後はそのまま触覚も動かなくなり文字通り静かに息を引き取った…。

もしかしたら、あのコクワガタは僕の帰りを待っていたのか?と思うと、こみ上げてくるものがあった。

たいして何もしてやれなかったが最後をせめて自分の掌で、温もりの上で看取る事ができて良かったと思う。

生と死。

さて、この文章を見て僕が病的だとか感傷に浸りすぎとか思うだろうか?

虫に感情移入しすぎだとか思う人もいるだろうか?

だが、そこにこそ哲学が、人生があると僕は思う。

確かに、相手は物言えぬ小さな虫。

さして思い出もなければ、何かをしてもらったわけでもない。

そもそも僕自身、虫が苦手でほとんど触る事も出来なかった。

しかし約1年半の間、同じ空間で生活を共にした事は事実。

その時点で「家族」というか、いわゆる帰属意識と愛情を司るオキシトシンが働く対象になったことは確かだ。

だからこそ、生きて欲しいと思ったし、死なないで欲しいと思ったし、死んだ時は悲しかった。

「死なないで欲しい」とは?

ここで重要な事が2つある。

1つは、「死なないで欲しい」って何?どういう感情なの?という事。

これはあくまで僕の主観によるもので、いうなれば僕の願望、エゴなのだ。

実際のところコクワガタ自身、どう思っているかは誰にも分からない。

確実にいえることは、僕が「野生のコクワガタの一生に介入して人工的に飼育した」という事。

「少しでも長く生きてくれ、死なないでくれ」というのは一見、コクワガタ思いの優しい願いだ。だがその裏で「自分の心の平穏を守りたい」など自分マターのエゴが何割か入っている。

いや、それがほとんどを占めるかもしれない。

コクワガタのためにと思ってもそれは結局、自分のためかもという結論に辿り着いた。

なぜ悲しいのか?悲しみというより恐れ

二つ目は、己の内に沸いた特殊な感情だ。

上記したようにコクワガタは最後、四肢を動かせなくなり、栄養摂取も出来なくなった。

動くのは僅かに口元の小さな触覚だけという状態。

数週間前までは元気だった。

土に潜り、木を這い、餌を食べ、水を飲み、僕の指に威嚇した。

それらがついにできなくなった。

人間も同じなのだ。

歩く、走る、電車に乗る、買い物に行く、好きなご飯を食べる、お酒を飲む、風呂に入る、など。今はそのどれもができる。

全部出来る。

だがそのうち、人生の終末に差し掛かるにつれて出来ないことが増えていく。

やがて弱り果て、ついにはエネルギー切れになって死ぬ。

葬式や高齢者との関わりを通じて、「死」と「老い」というものにはこれまで何度か触れている。特に「老い」に関しては仕事柄、そこそこ精通しているつもりでいた。

しかし正直、今回のコクワガタの「死と老い」に関してはなぜか狼狽した。

人間ではないし血も繋がっていない生き物。

なんならいい方は悪いが「畜生」の部類に入るたかだか1匹の節足動物の死。

…ではあるのだが、非常に感慨深いものがあった。

「自分もいずれこうなる」という恐れ。

この感情は、オキシトシンの作用や、エゴではない別の何かによるのもだ。

そして恐らくそれは「恐怖」なのだと思う。

コクワガタを自分の手のひらに乗せて最後の瞬間を看取った。

命が終わる瞬間を、いわゆる「臨終」を初めて経験した。

「死と老い」はファンタジーではなくリアル。

そしてそれは逃れられない「自然現象」であり、「平等に訪れる」という当たり前の事を再認識させられた。

「自分もいつかこうなる…」悲しみと狼狽の裏には恐らくこの深層心理があったのだ。

生きているとは?

さて、終わりにまとめとして思うことを書いていく。

人は自分以外の生物に対して、何を期待して、何を必要として、何をもって満足するのだろうか?

コクワガタは最後、身体が動かなくなり口元の触覚だけが僅かに動くだけとなった。

しかし、この状態だけでも個人的には嬉しかった。

「口元の触覚だけでいいからずっと動いていてくれ」とも思った。

この「口元の触覚だけでもいいから動いていてくれ」というのは「死なないでくれ」という事。

「死なないでくれ」とは「生きていてくれ」という事。

しかし、「生きていていてくれ」の後には「俺のために」が付く…。

自分としては「あなたの為に」のつもりなのだが、気が付けばエゴとなっている。

だって本人は生きたいと思ってないかもしれないのだから。

誰の為?

「死なないで!」とは例えるなら、水中で息を止めていて、苦しいからもう浮かぼうとするところを「まだ頑張れ!」と言われているようなものかもしれない。

カラオケで、二番が解らないから途中で消そうとしたところを全力で止められた時の感覚かもしれない。

それであれば迷惑以外の何物でもない。

自分はサレンダーを、離脱を希望して実行しようとしたのだ。

それに対しての、あきらめるな!がんばれ!死ぬな!は無責任であり、ある意味で「強要」なのだ。

よって、「死なないでくれ」はエゴなのだと思う…。

エゴを取っ払って残った物。

だが考えて見ると、物言えぬ小さな虫にすらこのような感情とエゴが芽生えるのだ。

これが大切な人間や家族となるとそれはさらに強いものとなるのだろう。

働けなくても、遊べなくても、動けなくても、喋れなくてもいい。

たとえ小指しか動かなくなってしまったとしても生きて欲しい。

この思いの真意についてエゴを全部取り払って考えると恐らくそれは「そこに命があるだけで尊い」ということなのだろうと思う。

「命」とはそういうものなのではないか?

自分の心の安定とかではなく、命という尊い物が失われるという「現象」に対して恐らく強いストレスを感じているのだと思う。

コクワガタの一生を通じては、色々な事を学ばさせてもらった。

コクワガタは確かに生きていた。そこにコクワガタの命が確かにあったのだ。

人生において、自分以外の命との関りはこれからも必然的に続いていく。

避けられない「老いと死」という自然現象を抱えながらも、今以上に自分を含めたあらゆる「命」を尊重して生きていこうと思う。