臨床における「十二支縁起」の独自解釈。

前回、NHKの「心とはなにか、脳科学が解き明かすブッタの世界観」という番組の事について書いた。今回はその続編だ。この番組は、脳外科医であり仏教を研究している浅野孝雄先生と、大学教授で僧侶の佐久間秀範先生との対談がメインとなる。

その中で「十二支縁起」という言葉が出てきた。

これは仏教の言葉で、人の心に苦悩が起こる仕組みだ。

「無明」により「生活作用」があり、生活作用により「識別作用」があり、識別作用により「名称と形態」があり、名称と形態とによって「六つの感受機能」があり、六つの感受機能により「対象との接触」があり、対象との接触によって「感受作用」があり、感受作用により「妄執」があり、妄執により「執着」があり、執着により「生存」があり、生存により「出生」があり、出生によって「老いと死」→「憂い」、「悲しみ」、「苦しみ」、「愁い」、「悩み」が生じる。

浅野先生は、通常横一列に繋がりを持つ十二支縁起を円環状にして、フリーマンの意識理論(心の起こり)に当てはめて考えられたのだ。

以下、浅野先生がいうには、

「無明」はカオス。

「行」は脳の辺縁系から生まれる本能的欲求、志向性。

「識」は、気付き、大域的アトラクターの成立。

「名色」は名前と色を認識。

「六処」は感覚器官の働き。

「触」は触覚、知覚の発生。

「受」は知覚の発生に対する情動的な反応。快苦で人間は良し悪しを判断する。

「愛」は憎と対になっていて、ともかく自分のものにしたい、あるいはそこから離れたいなどの愛憎の一番強い形。

「取」は、愛憎が当たり前になり習慣として生活しているという動物の状態。執着の状態ともいえる。この「取」までの状態はすべての有情に共通する心のプロセス。

「有」はいろいろな抽象的な考え、抽象観念が生じる状態。例えば愛、国、欲望、煩悩など。動物と人間の違いは「有」において瞑想を経て抽象的な観念、表像を生み出せるかどうか。

「生」は「有」の働きで人間が精神的に存在すること。

「死」は死ぬ事ではなく脳の中に形成された大域的アトラクターが崩壊することを示す。

「生じたものは滅する」これがプロセスの存在論。

「生」は生まれる事と生ずる事。「死」は死ぬ事と滅する事。生じて滅してを繰り返す。「苦」は生きている間に生じて滅するものであるとも浅野先生は言う。

この十二支縁起は本来、人の苦悩が起きる仕組みであるが、様々なプロセスやその改善方法などに応用が出来るように感じる。そこで、僕は独自に、「不定愁訴」やなんらかの「病」の起こりと消失、そしてその改善手段を十二支縁起になぞらえて考えてみようと思う。

①「無明」→無知、無防備、無策の状態。

②「行」→生活している上で「秩序あるストレス」と「秩序なき抽象的なストレス」、いわゆるカオスのストレスが心身にかかり続ける。

③「識」→ここで初めて心身の異常を自覚する。

④「名色」→どこの部位がどうなって辛いか。解剖生理学、客観的に。

➄「六処」→どのように辛いか、五感を駆使して、主観的に。

⑥「触」→病むところに手を当てる。自分で治せるかどうか。

⑦「受」→東洋医学、西洋医学による治療が効くかどうか。

⑧「愛」→大事にされたい、愛を持って労わってもらいたい。

⑨「取」→なんで自分だけ辛いんだ、辛くない人間が羨ましい、憎い。又は自戒。

⑩「有」→なぜ痛みがあるのか、人生とはなにか、自分はまだ恵まれている方なのか。

⑪「生」→今の苦痛を受け入れる。苦痛と共に生きる。

⑫「死」→苦痛が消える、気にならなくなる。アトラクターの崩壊。

不定愁訴を含むあらゆる病や痛みの起こりと消失は、多かれ少なかれこのようなプロセスを踏むのかもしれない。

「無明」は無知であり無策。始まりの真白な状態。これから起きる事がよく解らないから備えようがない。何があってどんな事が起きるのかを、短期、中期、長期で予測が出来ればそれに備える事が出来る。その備えが不十分だから不具合が生じるし、行き詰る。例えば、なんの知識も準備もなくエベレストに登ると絶対に体調を崩すのと同じ。

「行」は生活する上で発生する体への負荷やストレスのこと。「秩序あるストレス」か「秩序なき抽象的なストレス」、もしくはこの二つが合わさった「カオス」が積み重なって、自分のキャパシティーがいっぱいになった時に不調が起きる。前者は、繰り返し起きる外力や可視化できる負荷。後者は、言葉では説明が難しくなかなか可視化できず、本人も負荷と気付いていないような無意識にも似たストレスや負荷の事。「行」の時点で症状はまだ起きていない、いわゆる「未病」の状態。

「識」では、カオスのストレス刺激が脳に入る事で「快」か「不快」か、「安全」か「危険」か、「害」か「無害」かを大脳辺縁系で判断して、漠然とした異変になんとなく気付く。嫌な予感的な感じ。

「名色」は今、具体的に身体のどこの部位に何がおきているのかということだ。いわば病変部位の客観視ができるかどうか。「秩序あるストレス」による単純な怪我ならばその病変部位はほぼ正確に解るだろう。しかし「秩序なき抽象的なストレス」による不定愁訴となると、現代医学でも原因部位やメカニズムが良く解らなかったりする。

「六処」は症状の「主観」だ。内受容感覚との関わりも深い。「身体のどこで何が起きているか?」ではなく、「身体のどこがどのように辛いか?」ということだ。

症状や個人によって、十二支縁起のひと部分が長い場合も短い場合もある。

「名色」と「六処」で得た情報を元に、自分で患部をマッサージしたり擦ったり、食生活改善や運動習慣の見直しなど、自分で自分を治そうとするのは「触」の部分。

それでもだめで薬や手術、治療など西洋医学の介入を受け入れるのは「受」だ。西洋医学のアプローチで改善しない場合、代替え手段の東洋医学的アプローチの介入もこの「受」の部分。最新の西洋医学の治療と、それを補う古典の東洋医学の治療理論と技術をもってすれば大抵の怪我やなんらかの急性症状、亜急性の症状は治るだろうし、少なくとも改善の方向へ向かう。しかし、それらが功を成さない不定愁訴、怪我や病の後遺症などの場合はこの先のフェーズ群が重要となる。

「愛」は自愛と他愛だ。自分を否定してしまい、治る事を拒否している場合もある。自分は孤独、病がある身、人の足手まとい、誰からも必要とされていないなどと思うと、より症状が堅固なものとなる。なので、自分が大切にされている、いたわってもらっているという自覚を患者さんが十分に持てるように臨床家含め周りの人間は努める必要がある。そして患者さん自身も「自己肯定感」を強く持つことが肝要だ。そのように思える環境つくりも行うべき。

「取」は嫉妬と自戒のフェーズ。なぜ自分だけが辛いのだ、隣人は平気なのに、羨ましい、不公平だ、もう治らないのではないか、と、自暴自棄になることもある。この「負」の感情を自ら認めて発散させる事も時には大切だと思う。この感情があって当たり前なのだ。むしろ、平然を装って平気でないのに平気なふりをし続ける事で病の持続、悪化を招くのではないか。ただし、わがままはだめだ。「取」はわがままをたくさんしてよいというフェーズではない。自分勝手で怒りやすく、平気で法律を破ったり、人の悪口ばかり言って常に不平不満があって、いつでもどこでもトラブルを起こすような人間は病気になってしかるべし。そうゆう人間は自覚がないかもしれないが、行く先々で人と軋轢が生じるので生きずらく、周りからも恨まれる。結果、カオスが生まれる頻度が高くなり不定愁訴が発症しやすくなると同時に、治りにくくもなる。自己と他者を比べて自分に非があるかもしれないと反省し、他者を通じて自分を見つめなおし、自分が行ってきた負の言動を悔い改めるという事をしないといくら周囲が頑張っても病は決して治らない。

「愛」と「取」のまとめとして、「愛」では環境を整えて他者からの愛情と、患者さんに「自己肯定感」を持ってもらうという自愛が大事で、「取」は気持ちの発散と、自戒が大事だ。精神面のストレスからくる不定愁訴は大きく分けて「自己もしくは他者の愛が足りなくて病む」ケース、「自身の性格と行いが悪くて病む」ケースの二つだと思う。その中で「自己肯定感」を持ってもらう事と「自戒」を促す事、の二つを使い分けて行うことで治癒のアルゴリズムが動き出す可能性も大いにあるだろう。

「行」と「識」では、生活でかかるストレスをある程度予測してそれに備え、「名色」と「六処」では、病んでいる部分と症状を把握し、「触」では、食生活と運動習慣の改善、身体のセルフケア、「受」では、プロによる治療を受け、「愛」では、他者からの愛情と自己愛、環境整備、「取」は、内面の発散と自戒、これらを行っても症状の改善が見られなくて長引く場合はさらに先のフェーズに進む。

ここからは、患者さんが自分自身との対話や、精神世界での働きかけなどを通じ、学び、自分なりに納得して進まねばならないフェーズとなる。

「有」は、患者さん自身が、自分の魂、人生、世界、宇宙、神など抽象的で哲学的な大いなる存在に意識を向けるフェーズ。今までは「どこがどのように辛い」というように体の内部に焦点を当てていた。しかしそれは宇宙規模で見れば小さな小さな視点ともいえる。そうではなく、もっと生命の根源や宇宙の創生、神の存在の有無などに目を向けて見るのだ。要するに、視点を「現実的なミクロ」から「非現実的で抽象的なマクロ」へ移す。あと、ミクロはミクロでも、脳と魂の違いとか、なぜ人間は生まれたのか、など、堀に掘り下げるのもよいかもしれない。(※非現実的なマクロと書いたが、人類の誕生や宇宙の創造、その創造主の存在については解明されていないため、今のところ「非現実的」なだけで、いつの日かしくみが解れば「非現実的」ではなくなる…かもしれない。)

それらの思考と探求の過程において不定愁訴を克服する何らかの心の持ち方や知恵が得られるかもしれない。それに、知る事の喜びや好奇心が神経伝達物質とホルモンを動かし、それらが脳と身体に作用して既存の不定愁訴の感覚をマスキングしてくれるかもしれない。人間は心の定まらない時に不幸を感じ、何かに熱中してる時に幸せを感じる。人間の身体と、脳の内部及び精神世界とで比べれば、人間の身体のどこかで起きてる不定愁訴は小さいと言える。脳と精神世界、思考の奥行きは本人でも自覚できない程に大きく広い。その広い脳のどこかに不定愁訴改善の鍵があるかもしれない。

「生」は今までの集大成であり、「無明」「行」「識」「名色」「六処」「触」「受」「愛」「取」「有」一つ一つのアトラクターが活性化してそれらが全体的に繋がって大きな大きなアトラクターとなっている状態。なので、一つ一つのアトラクターの練度が高ければ、恐らく「生」の時点で不定愁訴をなんらかの形で克服できるはずだ。逆に言うと、「生」のフェーズにきても不定愁訴が意識に昇り、症状がどうにも辛く耐え難いのならば一つ一つのアトラクターの練度、もしくはどこかのアトラクターの練度が足りないとも考えられる。

最後のフェーズである「死」は大域的アトラクターの崩壊だ。すなわち、既存の症状が滅する状態。

仮にこれを足の捻挫で例えるなら、「死」はそれまであった足首の症状がなくなり、普通に痛みなく運動が出来るようになった状態。圧痛、運動時痛がなくなり、患部を保護していたテーピングやサポーター、ひどい場合はギブスからの解放、消炎鎮痛剤も飲まなくてよく、普通に靴を履いて仕事や遊び、運動が出来るという具合だ。しかし、若者の軽い足首の捻挫や擦り傷のように完璧に治るものならばいいが、不定愁訴や不治の病の場合は「死」の解釈は少し異なる。

僕の祖母はすい臓がんが全身に転位して亡くなったが、この場合の大域的アトラクターの崩壊、すなわち病と痛みからの解放を表す「死」は本当の「死」だった。祖母は命ある限り全身の痛みで苦しんでいた。この状態では、愛情、環境整備、治療技術の練度向上、抽象的なマクロ思考などを行っても治らない。肉体の死を持って、初めて病の大域的アトラクターの崩壊がなされたのだ。祖母のように、しょうがない場合もあるだろう…。不治の病による大域的アトラクターの崩壊は、肉体の「死」をもってのみ起こされる場合も残酷だがあるのだ。

では、不定愁訴の場合はどうだろうか。例えば慢性頭痛。これは、症状が起きている時もあれば、ない時もある。だけど頭痛の頻度が多い状態。このような場合を短期的に見ると、頭痛症状という名の大域的アトラクターが出きては崩壊しを繰り返しているといえる。中期で見ると、症状は頻繁にあるわけだからアトラクターの崩壊は起きていない。この場合は、「識」、「触」、「受」あたりの練度を高める必要があると思う。要するに、生活習慣の改めや、繰り返しの潜在的なストレスのあぶり出し、施術や治療が適切かどうかを見直し、磨きをかけることで「死」のフェーズ(慢性頭痛が無くなること)を促進させるのだ。長期で見た場合これは極論だが、慢性頭痛を数10年スパンで見た場合、現在が例えば30代だとして、そこから50年後、80歳頃まで全く何の変化もなくずっと慢性頭痛の症状は不変であるだろうか。恐らく何らかの変化があり、症状が治まっている可能性は大いにある。

では、同く不定愁訴の耳なり症状はどうか。客観的所見に乏しい耳鳴り。近代的な治療やはたまた鍼治療も受けたが芳しくない。これは、「行」、「識」あたりの潜在的ストレスのあぶり出し、「受」(適切な施術が受けれていない可能性)なども注意深く診ていき、練度を上げる必要があるが、どうにもならない場合は、「有」と「生」が重要になってくる。これは加齢性の耳鳴りも然りだ。加齢性の耳鳴りの場合は、音を電気信号に変換する有毛細胞が加齢により壊れていて、それも非可逆的なため基本的に治らない。慣れるしかない。その場合、如何にして耳鳴りの不快な情報を大脳皮質にて認知させないようにシャットアウトするかを模索する必要がある。抽象的なマクロ思想を経て、大きな心と深い理解で耳鳴りを受け入れる事が出来れば「死」(耳鳴り症状における大域的アトラクターの崩壊)のフェーズに辿り着く事が出来るだろう。

なので、「死」に関しては、症状を短期、中期、長期で見る事と、その他の十二支縁起のセクションの練度向上と見直しが重要となる。

どんな辛い不定愁訴でもこの3つの事は忘れないで欲しい。

①短期で見れば症状の大域的アトラクターはその都度崩壊している(症状から一時的でも解放されている瞬間はあるはず)。

②「諸行無常」。この世の全てのものは常に動いていて、不変ではない。長期で見れば絶対に症状は変わるはず。現状は必ず変わる。

③思考の奥行きは果てしなく深くて広い。熟考と抽象的なマクロ思考の果てに、自分の頭の中に今を生きる鍵が、症状打破の鍵があるかもしれない。自分を信じる事。

最後に、仏教の「十二支縁起」という考え方を浅野先生の言葉にヒントを得て、臨床に応用して考えてみたことは自分としては大きな収穫だと思っている。しかし、現時点では解釈の幅が浅く、まだ考察の奥行きがあるように思っている。今後、年齢が進み、経験を積み、今よりももっと人生に深みが出てきた時には今よりもよりよい解釈ができるようになっているかもしれない。これはあくまで、2023年6月21日時点での僕の解釈であることを付け加えておく。