座禅、瞑想のすすめ。無になると最適解が降りてくる。

健康を維持し、病を治して未病を防ぐには「身体」、「脳」、「心」にゴミを溜めない事が大切だ。

身体に溜るごみのような物。

身体に溜るごみとは、多すぎる脂肪や糖分、食品添加物、アルコール、ニコチン、タール、人工甘味料、マイクロプラスチックなど。

こんなものが身体に存在し、常に摂り続けていると体もおかしくなるし、長く続けば病気にもなることは言うまでもない。

脳に溜るごみ。

脳に溜るごみとは、レビー小体型認知症を起こす異形タンパク質などがそれにあたる。

だが、今回ここで書く脳に溜るごみとは「余計な情報」のことだ。

現代社会では、至る所から五感を通じてどうでもいい情報が入ってくる。

例えば、化学薬品による匂い、テレビCMなどの不快な雑音、パソコンやスマートフォンを通じて見るデジタル情報など。

必要なものも中にはあるだろうが、不必要なものがかなり多いはずだ。

これらの情報を本人(顕在意識)は認知していたり、していなかったりする。

しかし脳は、潜在意識下で捉えた情報の一つ一つもけなげに処理している。

それにも知らぬ間に脳のメモリが割かれ、エネルギーを消費しているのだ。

心に溜るごみ。

心に溜るごみとは、簡単にいうとストレスだ。

日常の小さな心配事や、世界規模の大きな心配事、未来の心配事、過去の後悔や過ち、対人関係におけるわだかまり、終わりが見えず逃げられないストレス、恐怖など。

負の感情は心にいいはずがない。

こんな事を常に考えていれば自律神経が乱れて必ず不調をきたす。

東洋医学的にも、感情が五臓六腑を傷める事の関連性が示唆されている。

身体のごみを溜めないために。

まず、身体のごみを溜めないためには意識して食生活を気を付けるしかない。

あと運動。

とにかく悪い物を身体に入れないようにして運動して汗をかき、身体をあたため、代謝を活性化させて排毒を促す。

瘀血を出す「刺絡療法」もこれに該当する。

脳のごみを溜めないために。

脳にごみを溜めないためには、とりあえずデジタルデトックスがよい。

しょせんデジタル情報など、栄養と違って摂取しなくても死ぬわけではない。

積極的に見る必要はない。

見ないにこしたことはない。

テレビ、SNSは人の自慢や承認欲求、痛ましい事件事故など、ほとんどストレスのもとだ。

ネットニュースは選択的に情報を取得できて良いが、それに付随する広告は毒だ。

勝手に脳に入ってくるようなバナー広告はなるべく排除したほうがよい。

入れるならば、紙媒体の情報が良い。

マルチタスクはよくない。

紙媒体や、アナログな情報をインプットする時、その情報量はシンプルなものだ。

ところがデジタルとなると、知りたい情報の他、スクリーンから発せられる光線、バナー広告、関連情報、その他サブリミナル的な情報など、脳には複数同時処理が要される。

脳のメモリが100あるとして、メインで考えたい事柄にメモリを100使うのが理想だ。

だが、様々な情報処理に60くらいメモリが取られてしまい、残り40のメモリでメインの思考や推論を行わねばならないとしたらどうだろう?

情報処理の精度は約半分以下になり、そこから導き出される答えも質の低い物となろう。

スマホなどのデジタルスクリーン視聴時間が多くなればなるほど、学力が落ちるのはそのためだ。

※川村隆太さん著書 スマホが学力を破壊するより。

どうでもいい情報を処理するために力を使ってはいけない。

今、自分がすべきことにメモリをフルで使うのだ。

そして常に、自分を最適化する方向に脳のメモリを振り分けねばならない。

心に溜るごみ。

これを排除することはとても難しい。

人に依って様々であり、大小ある。

何より生きている以上、終わりがない。

でも、一つお勧めなのが「座禅」をして「瞑想」することだ。

これで心に溜ったごみを捨てる、いわば心のデトックスをするのだ。

座禅と瞑想法についていかに記す。

深く呼吸をして息を整えて目を閉じる。

 両手を合わせて、嫌な思い出や欲などを思い浮かべてすりつぶす。

手の平を目にあてて温かさを感じる。見たくないものから目を守る感じで。

4  目の他にそのまま耳も塞ぐ。聞きたくないものを聞かない感じで。

何も考えない方法。

鼻から吸ってその空気が上方、脳の底に流れているのを感じる。

目を閉じた時に浮かぶ残像に注意をはらってみる。出来れば半眼を目指す。

耳下腺、顎下腺から出る唾液の流れを感じる

耳なりを感じる。自分の周波数に耳を澄ます。

 へそ下三寸(臍下丹田)に意識を持ってくる。

心が定まらない時に不幸を感じる。

脳科学者の中野信子先生いわく、「人は心が定まらない時に不幸を感じる。

逆に、何かに熱中している時に幸せを感じる」そうだ。

迷いが生じると、悩み、疑心暗鬼になってしまう。

そしてその事に脳はメモリの多くを投じて情報処理、解決しようとする。

これは答えがなく、まるで見えない敵と戦っているようなものなので脳は消耗し疲れる。

脳が疲れるとセロトニンやドーパミンも枯渇して元気がなくなる。

無になる事、もしくは一心不乱に何かに打ち込むことが大切だ。

無になるとは。

「脳を休ませる事」こそ無の本質なのではないかと僕は思う。

座禅をしている時は無心にならなくはいけない。何かを願うわけでもないし、何かを深く考える時間でもない。

ましてやなりたい自分になるイメージをする時間でもないし、宇宙とつながって天啓を得ようと躍起になる時間でもない。

座禅は「無」になる時間なのだ。

何も考えないでいると脳は休まる。

余計な事物にエネルギーを使っていないのでその分、自分で自分を浄化する力が高まる。

座禅と瞑想は、脳と心を休ませて心のごみを捨てて思考をクリアにするデトックスのようなものだと僕は考える。

無になると最適解が自ずと降りてくる。

大きな悩みを抱えている方こそ座禅はやった方がいい。

座禅を週間的にしているとある日突然、ずっと抱えていた疑問に対する答えが自然と降りてくる時がある。

人生に迷っている方も同じだ。

こうしたほうがよいとか、今やっている事はよくないとか、現状においての最善の道がそのうち自然と理解できるようになるはずだ。

これは、心を無にして散歩している時にも同じような事が起こる事がある。

不思議なものだ。無になる事で得られる最適解は「悪知恵」ではないはずだ。

理で考えれば己の利のために悪知恵を働かせる人もいるが、それは最適解ではない。

無の状態で得た最適解はきっとだれも傷ついたり損をしない方法のはずだ。

何らかの難治性疾患、慢性疾患を抱えている方もまずは脳内のキャッシュのクリアをしてみると良い。

無になる事で、病が治るわけではない。

だが今までとは違う心のあり方、突破口が自ずと降りてくるかもしれない。