分岐点では「光の選択」を

人生は線路の上を行く電車の旅のようなものだ。「電車」が「人」だとすると、何両編成か、内装外装の豪華さ、速さなど、それぞれスペックが違う。そして「レール」にあたるのが「生活」だろう。

では良い人生を歩むにはどうすればいいのか?

ここで思うのは、いくら「電車」をかっこよい外装にしたり、自らが進む「レール」を大理石やプラチナにしたりしてもあんまり意味ないというか、それらは本質ではないという事。大切なのは「電車」と「レール」ではなく「分岐」であると僕は考える。「分岐」とはすなわちどっちにいくかの「選択」にあたる。人生において人は皆、日々多くの選択、すなわち意思決定をしている。先に歯を磨くか、顔を洗うか決めるのもいうなれば小さな選択だ。時として、重要な選択をせねばならない場合もあるだろう。選択をした瞬間に人生を大く左右する分岐、今は目に見えなくても後に大きくあらぬ方向へ逸れていく分岐もある。

仮に選択を二進法で「光」と「闇」の二つとした場合、「闇」の選択ばかりしていると、当然おかしな方向へ電車は進んでいく事になる。通っただけで車両が傷つくような茨の道や、内外装に「とれない汚れ」がべったりつくような不潔な道、落ちたら終わりの断崖絶壁の道など、軌道修正を掛けねば車両が走行不能になる可能性が高いルートもある。

そして人生における電車の旅は引き返せないし循環もしない。行ったきりで元の位置には二度と戻れない、片道のみの旅なのだ。

なのでなるべく「光」の選択をすべきだと思う。光の方向へ行くと良い事があるというか、生き残る確率は上がるだろう。これは単なる抽象論ではない。

その理由として、自然の植物はおのずと光が当たる方向を向く。なぜならそれは生き残るためだ。そして驚くべき事に、木の葉は葉が重ならないで一枚一枚太陽の光が均等に当たるように生えている。そしてその葉の生え方は正確な対数螺旋(フィボナッチ数列)になっているのだ。自然の植物達は光の方向へ進んだ事で奇跡的にというか、必然的に最適化されたフィボナッチ数列という黄金比に辿り着いたのだ。

フィボナッチ数列とは、1対1.6の長方形の事。これを半分にすると正方形ができる。そしてまたそれを半分にして、また半分にして、どんどん半分にしていき、各正方形の辺の長さを半径とした曲線をつなぎ合わせると綺麗な螺旋となる。

このフィボナッチ数列に基づく対数螺旋は人間の目には最も美しく写る「美しさの黄金比」だ。ミロのヴィーナス、パルテノン神殿、葛飾北斎の波の絵にもフィボナッチ数列が用いられている。さらには上述の自然界の枝葉だけでなく、巻貝類の渦巻き、台風、銀河系の渦巻きもこのフィボナッチ数列に基づいているというから不思議なものだ。

さて、少し話しがずれたが基本は「光の選択」をする事。その都度「光の選択」をしていれば、人生が破滅するようなおかしな方向にはそうそういかないだろう。

しかし、いったい「光の選択」とは何か?(笑)何をもって「光」なのかが重要となる。ここが単純だが難しい。案外、子供の方がこの選択は容易いのではないかと僕は思う。要は「悪い事はしない」「悪い事をしたら謝る」「人に優しくする」「きちんと生活する」など、いたって基本的な事だ。しかし大人になるとその判断が時として曇る。解っているけど難しい場合もあれば、本来「闇の選択」なのに良かれと思って「光の選択」だと信じて疑わない場合もある。その背後には脳のバイアスや同調圧力、偏った思考回路など様々な要因がある。

「闇の選択」を避けるために大切な事はまず、迷ったら即決はしない事。ウォーキングや瞑想などの最中、ふと無心になった時に自ずと進むべき道や、なんとなく正しい結論がでる事もある。迷ったら決断せずにとりあえず時間を置き、無心になる事だ。

次に、そもそも決断を下す自分の脳の「行動規範」がいかれてる場合がある。意思決定する際の行動規範というのは、人を人たらしめている部分を司る脳の前頭前野がそれを担う。何が常識で何が正義か?ここの部分が幼少期などに他者や環境により歪められてたり、自身でわざと歪めねば生きてこられなかったような過酷な経験がある場合、良かれと思ってゆがんだ意思決定をしてしまう可能性が高くなる。

脳は粘土のようなものだ。ゴムは伸びて一時的に形が変わっても手を離すと元に戻るが、粘土は上から押しつぶせば潰れる。手を離しても元には戻らずつぶれたままだ。脳も同じで、一度誤った情報をインプットしてそれが当たり前となった場合、それをそうなる前の状態に戻す事は残念ながらできない。

だが「上書き保存」はできる。良かれと思って行った自分の言動により周囲とずれや軋轢が生じた際、一度自分を客観視する必要がある。少しづつでも自身の対応や言動をチューニングして、周囲に同調していくことも一つだ。しかし、人によって「行動規範の上書き保存」には専門のカウンセリングが必要なケースもあるだろう。そのような方は一度、心療内科に問い合わせてみると良いかもしれない。

最後に、これも上記の行動規範と似た部分があるが、自己肯定感が低いのは良くない。「自分はどうせダメな奴」という認識が「光」の選択の妨げとなる。「自分はダメなやつ」だからこそあえて「ダメ」な選択、すなわち「闇の選択」をわざと選んでいるのだ。

なぜか?その方が楽だからだ。以前のブログでも書いたが、人間は新たな思考パターンの構築に多大なエネルギーを消費するのでストレスを感じる仕組みになっている。既存のルートはいつも使っているから少量のエネルギーで使用可能。そのため今まで通りの「楽な方」すなわち「闇の選択」をしがちになる。

これを変えたければとりあえず「根気」と「忍耐」が必要だ。脳が嫌がっても、新たな思考パターンが構築されるまで続けるしかない。最初はきついが習慣化すればたぶん一カ月以内にはあまり苦を感じなくなると思う。「自分はダメな奴」という認識で今まで生きてきて、まがいなりにもそれで得したこともあるだろうし、現在に至るまでなんとかなってきたという実績があるのは事実。そのため自分の行動規範を今更、新たに書き換えるのは怖いし抵抗があるのも分かるが、勇気を出さねばならない。

「自分はダメな奴」という認識を捨て、「自分はまともな人間」とか「世の為人の為に役に立つ人間」でもなんでもいいから「光の選択」が出来る新たな自分の行動規範を構築して上書き保存するよう努めるべきだ。

…と、偉そうな事を思い付きで書いているが実際は難しい(笑)。でも何が「光」か「闇」か、大小合わせた日々の選択時に意識してみるのは面白いと思う。

「人生」という名の電車の旅で、今まであまりいい景色を見て来れなかったという方は分岐部での選択をちょっと変えて見ると良いかもしれない。ささいな分岐を日々光の方へ少しずつ進んでいくと、フィボナッチ数列に辿り着いた植物達のように、人生が最適化されて見た事のない素晴らしい景色が行く手に広がっている可能性がある。