ゲーム依存と愛着。虚構の世界と不毛な行動。

いわゆる「テレビゲーム」という仮想現実空間には、現実世界で実現不可能な事を可能にしてくれるという魅力がある。登場キャラクターの見てくれや生い立ちに愛着と共感を抱いたり、レベル上げをして誰よりも強くなったり、ゲームソフト内では世界の中心にだってなれる。その他、「やり込み」「リアリティ」「自己顕示」「自己承認」「誇大自己」「自己実現」「背徳」「道徳」「自由」「癒し」「美しさ」「権威」などの要素があり、ゲーム機という文明の利器が織りなす仮想空間は「夢」をみさせてくれるのだ。ゲームに関連する様々な要素を先にいくつか挙げたが、今個人的に思いつくのはこの程度で、他にも色々な要素があるだろう。要はそれらの要素がプレイヤーの琴線に触れ、何個フックが引っ掛かるかという事だ。それによってゲームにドはまりするかそうでもないかが決まるのだと思う。

ゲームとの付き合い方を考えた時に、現実世界におおむね満足していて補助的な形でほどよくゲームに興じるのならば大して問題はない。ゲームを通じてクリエイティブな経験ができたり、適度に息抜きができるなど、プラスの面も少なからずある。しかし、現実世界に不満を抱いているという人物が、ゲーム内でのみやりたい事をする、欲求や願望を満たすという場合は少し危険が伴うように感じる。

最近のゲームには、軍のシミュレーションのような殺戮がテーマのゲームもあるし、街中を自由に歩き回って強盗、傷害、殺人を行えるというガラの悪いゲームもある。

その他、ゲームプレイヤーの中には素性を隠してオンライン上で相手を誹謗中傷したり、金銭を巻き上げたり、意図的にプログラムを改ざんしてシステムに干渉する人間もいる。このレベルになると夢と現実の堺を超えて確固たる「犯罪行為」となるのは言うまでもない。

ゲーム依存者やネットゲーム内で犯罪行為を行う人間は、恐らく現実世界では満たされないなんらかの闇やトラブルを抱えている。心に闇を抱えるがゆえにゲームに依存するのか、もしくはゲームに依存するがゆえに闇を抱えるのか。そして、ゲームを含むあらゆるデジタルスクリーンを1日1時間以上使用すると脳機能、特に前頭前野の不活を招く事は先のブログでも書いた通りだ。いずれにしても、心の闇とゲームの関係はしばしば下記のような流れを辿るのだと思う。

①現実世界で闇を抱える②ゲームと出会う③そのゲームに何時間も没頭する事で心身が疲弊する④同時に前頭前野機能も低下する➄疲労によるあらゆる不調とストレスを抱える⑥それに加えて共感力、自制もあまり効かない状態で日々を過ごす事でミスやトラブルを起こしやすくなる⑦トラブルやミスで周囲と軋轢が生まれてさらに現実世界で闇を抱える⑧癒しを求めより一層ゲームに励む。

このようなルーティンに陥ってしまうとなかなか抜け出せない。心身共に疲弊して、脳のパフォーマンスも鈍っているという状態だからこそトラブルに繋がり、また心に闇を抱える。ゲームを止めて規則正しい生活をすれば心身と脳も良い状態に回復するのだが、それができない。なぜできないかというと、その人にとってゲームが「愛着基地」となっているからではないかと僕は推測する。

前回のブログで「赤ちゃんサルと二体の母親の実験」を紹介した。そこから分かるように、生き物にとって愛着行為、愛着対象は「心の平穏を得る」ために必要なものだ。そして愛着により得る「心の平穏」は、生きる上で衣食住に匹敵するくらいかなり重要な要素を持っている。「愛着基地」とは簡単にいうと、マイナスの感情を和らげ、プラスの感情を育み、自尊心を満たしてくれる場所だ。愛着障害についてのブログでも書いたが、安定した「愛着基地」の有無は、日々の生活の質に大きく関わる。

なので、心に闇を抱えたゲーム依存者にとってはゲームキャラが「愛着対象」でありゲーム世界が「愛着基地」となっているのだろう。闇を抱えたゲーム依存症からすると、「ゲームをやめろ」という言葉は、ちょっと極端な言い方かもしれないが言うなれば「大好きな人ともう会うな」と言われているようなものなのではなかろうか…。よって、ゲームは悪だからやめろとか、一日1時間に抑えろという言葉は、「大好きな人」すなわち家族や友人は害悪であり、会うなら一日1時間のみと制限をかけられているようなものだ。そうなると隠れてばれないように接触を図るだろうし、「なぜこんなにも会いたいのに、法律を破っているわけでもないのに会ってはいけないのだ!」と強く反発したくなる気持ちも解る気がする。

確かにゲームの世界は居心地がいい。その世界内においては、ほぼ自分の思い通りの事ができる。そしてなによりゲームの主人公を演じる自分は、その世界では「うまく」やれている。ゲームの主人公はおおむね、人付き合いをそれなりにこなして、人望、職、生きる意義、類まれなる才能と境遇を持っている。誰にでも気軽に話しかけ、話しかけられ、頼られる。ゲームをプレイしていると、それがどこか健全な感じがして、なんとなく良い時間を過ごしているように感じるというか、そのシチュエーションに憧れるような気持になる。「現実もこうならいいのにな」と思う気持ちも正直解る。

しかしこれらはすべて、プレイヤーを気持ちよくさせて離脱を防ぐため、あらゆる角度から研究し、そのようにプログラムされただけのいわば「接待」のようなものだ。そこを勘違いしてしまったり、最初は解っていてもいつのまにか居心地が良すぎてその世界が当たり前になってしまうとまずい。

更に、最近のゲーム機はとてつもない処理能力を搭載しているので、映像がとにかく美しくてリアルだからこそタチが悪い。ますますゲーム世界という居心地の良いぬるま湯から抜け出せなくなる。

そこで、どうすればゲームから遠ざかる事ができるかという事だが、僕はゲーム世界からの離脱の鍵となるのは「疲労」であると考える。

僕自身、約一カ月間毎日何時間も任天堂スイッチでポケモンバイオレットをプレイしていて、半分中毒っぽくもなった。しかし、今はもう別にやらなくていいかなと思っている。その理由は単に「疲れる」からだ。

まあもっとも僕はゲーム依存症ではない。なので、ゲーム依存症で本当に苦しんでいる方にはあまり当てはまらないかもしれないが、何かの足しになればと思い言葉を置いておく。

僕はもうじき40になるので、だんだん疲れやすくなってきている。

仕事終わり、自分の体力も残り少ない状態。そこで寝るまでの時間を使ってゲームをすると、翌日の眼精疲労と首肩腰の凝りが半端ではない。睡眠をとっているのに全回腹していない。ゲームを長時間すると、まるで繁忙期の時のような疲労感を感じる。それなのに、現実世界では何も得られていない。こんなにも疲れて、日中しんどい状態なのに「何も得られていない」。ゲームの世界ではレベルが上がったり、強い敵に勝ったり、レアアイテムを入手したりと確かに実入りはある。しかし、だからと言って現実世界では何の意味もない。せいぜい、患者さんとゲームの話ができるくらいだ。無論、ゲームというコンテンツでお金を稼いでいる人もいる事はいるが、一般的ではない。

そして、仕事が終って寝るまでの時間、撮りためた健康番組を見るとか、本を読むなどやらなくてはならない事もあるのだがゲーム優先となるとそれらが全ておろそかになってしまう。

結局、ゲームで遊ぶのは「不毛な時間」だという結論に達して、全クリしてしばらくした時点で全くやらなくなった。「体が疲れる」ということと、「現実世界では何の意味もない」この二つの理由で僕は早期に離脱が出来た。

太古の時代、メソポタミア文化圏の刑罰法の一つで、右の砂の山をシャベルで左に移し、終わったらまた右に移すというようなものがあったらしい。右の山を崩して、左に山を作って、また左の山を崩して右に山を作り直す。そしたらもう一度左に山を作りなおす、というこを来る日も来る日も永遠にやらせる。これの意味するものは「無意味」だ。本質的に人は、無意味な行動が大嫌いだ。なぜなら生きるために必要で貴重な体力と知力が意味もなく消費されるからだ。限られた時間で頭と体を使うならば、より実りのある使い方をせねば今日、そして明日が生きられない。命を維持できない。よって本来、無意味な労働、無意味な時間はいうなれば「リスク」でしかない。

ただ、現在は飽食の時代とも呼ばれ、特に親の加護の元で暮らす学生や、生活保護や親族が資産家など特殊な状況のニートなどは生活崩壊のリスクが少ない。だからこそ物事の本質が見えにくくなり、ゲームの織りなす虚構の世界に安心して疲れ果てるまで身をゆだねる事ができるのだろう。

でもいつかは、虚構の世界で踊らされていただけの、なんの生産性もない、無意味な時間で命を消耗しているということを真に理解して「そこ」から離脱せねばならない。これはゲーム依存から脱却する重要な鍵となる真理といえるだろう。