オキシトシンと「争い」。

オキシトシンとは、脳下垂体後葉から分泌されるホルモンの一つだ。

主に女性の子宮筋を収縮させて分娩を促したり、乳汁射出に関与する働きを持つ。近年ではそれ以外に「愛情」と、それを守るがゆえの「攻撃性」にも大きく関係している事が明らかになってきている。妊娠、授乳はせずとも男性の脳でも分泌される。

以前テレビでこんなニュースを見たことがある。どこかの国で、細い華奢なお母さんがベビーカーに赤ちゃんをのせて歩いている。そこへ、見知らぬ中肉中背の男性がおもむろに近づいてきて、事もあろうに赤ちゃんを連れ去ろうとしたのだ…。その瞬間、母親は勢いよく男性に殴りかかった。母親が片時も休むことなく、無我夢中で男性を殴打し続けた結果、男性はあまりの攻撃に怯み、ついには床に倒れ、その後起き上り走って逃げていった。母親の懸命な攻撃のお陰でこの親子は事なきを得たという次第だ。

もうひとつ、これはいつか見た自然動物を取り上げたNHKの番組での一幕。詳しくは忘れたが、肉食動物の餌食にされそうになった我が子を救うため、草食動物の母が命をかけてその肉食動物に食って掛かり、母子共に奇跡的な生還を果たしたという話だ。

これらのように、血を分けた我が子など自分の愛情の対象となるものを守るため、普段は絶対に勝てない相手にも命がけで戦いを挑むという、強い攻撃性と捨て身の精神を発揮する源となるのはオキシトシンの作用らしいのだ。(※)

妊娠、出産後の女性は授乳のためにオキシトシンが潤沢に分泌されるわけだが、家事や育児に非協力的な旦那さんに対して嫌悪の感情が強く芽生え、攻撃的になるのもオキシトシンが関与している。いくら身内といえども、旦那さんの言動に対して何らかの敵対の意志を感じ取り「敵」と認識しているのだ。

実はこのオキシトシン「戦争」にも関与してるという見方があるのだ。(※)

こんな心理実験がある。仮に電車がレールの上を走っている。少し行ったところに分岐ポイントがあり、あなたはそこにいる。分岐AのルートにはAさん一人。分岐BのルートにはB、C、Dの三人がいる。分岐ポイントを切り替えなければAのルートを通りAさんが轢かれて死ぬけれどB、C、Dの三人は助かる。分岐ポイントを切り替えればBのルートを通りB、C、Dの三人は轢かれて死ぬがAさんは助かる。さてあなたは分岐を切り替えるかどうするか…というもの。

これに明確な正解はないが、多くの被験者は被害を最小に留めて最大の人数を救う事を選んだ。しかし、ある条件を加えるとこの実験の結果は大きく変わる。それは、どちらかに自分と同じ国の人間がいた場合、分岐をどう切り替えるかという条件。結果は、最小の被害とか最大の人数を救うとかは関係なく、自国の人間がいる側を助ける方を選ぶ被験者が圧倒的だったのだ。

冒頭で紹介したような「自分の家族を守るために戦う」という最小のものから、サッカーや野球などのように「自分の所属チームのために戦う」という中規模のものもある。熱が入りすぎるあまり選手同士が乱闘になったり、選手以外のサポーターや観客達が敵味方に分かれて大揉めになったりトラブルになる事もある。

健全な心と体で、世界共通ルールで、スポーツマンシップに則り行われる「スポーツ」ですら揉めるのだ。それだけオキシトシンの持つ集団への帰属意識は強いということだろう。

人間には、社会、チーム、国、学校、会社、仲間など、なんらかのコミュニティに「所属したい」という欲求がある。なにかに「所属」していれば「愛着」も湧くだろうし、何より自分の所属するコミュニティが崩壊する事を潜在的に「恐れる」という面もあると思う。

我々人類は、一人では生きていけない。孤独でいるよりも集団でいた方が生存確率は上がる。太古より集団で生活してきた。足りない分は皆で補い、時には団結して外部の敵を退けつつ暮らしを守ってきた。自身が所属するコミュニティ、いわゆる「群れ」から離れる事は限りなく「死」に近づくことになる。広義で言うとオキシトシンが持つ脳に及ぼす作用は、人類が長い歴史の中で、己の生命維持と子孫繁栄のために群れからはぐれないよう、その群れが壊れないように群れの運営を正常に行うために発達した能力なのだろうと思う。その守らねばならない所属、すなわち愛の対象が、シチュエーションにより小規模、もしくは大規模なものになるのだろう。

戦争に関してはもう一つ、「共感性」が関与している。近年では「戦い」の形が昔のそれとは大きく変わってきている。(※)

例えば原始時代の戦いとは、こん棒や石で相手を叩くとかそんなものだろう。この攻撃はごく至近距離から行われ、当たる方は勿論痛いが、当てる方もリアルに感触が伝わってくる。「今回は当てたけど、次は当てられるかもしれない」という張り詰めた緊張と恐怖、そして罪悪感のような「複雑な感情」が戦いには常に付きまとう。

少しずつ技術と戦い方が進化してきて、今度は槍を投げて相手に当てるようになった。すると、石で叩いていたり剣で切ったりとフルコンタクトで戦っていた時よりも相手との距離が開く事で、上記の「複雑な感情」が少し和らぐ。

さらに、鉄砲を使って戦いをする時代になると、より長距離から安全に相手を仕留める事が出来るようになった。それによりもっと「複雑な感情」が和らいぐ。

さらにさらに時代は進み、ボタン一つで大きな爆発を起こして多くの人間を姿形も残らず吹き飛ばす事ができるようになった。自分は戦場におらずとも遠隔で攻撃ができる。これによりもっともっと「複雑な感情」は和らぐというか、遠のく。

この「複雑な感情」とは、文字通り複雑な感情なのだが、「共感力、共感性」がその多くを占める。攻撃対象が自分から離れれば離れるほど、姿が見えなければ見えない程に「罪悪感」と「共感力」は低くなる。攻撃をする際に、「痛そう…」とか「もしも攻撃対象が自分や、自分の母親だったら…」と思うからこそ踏みとどまれるし、頭を働かせて別の解決策を考えるだろう。

SNSの誹謗中傷が時折話題になるがこれもそうだ。自分は姿を隠して安全地帯から相手に不快な思いをさせるという卑怯な行為だ。誹謗中傷を行う人間の多くは、必ずしもその対象者に強い私怨があるわけではないという。ただ単に自分の承認欲求を満たしたいとか、なんとなくとか、目にとまったからとか、そんな他愛もない理由なのだ。加害者自身もSNSにて誹謗中傷を受けたことがないために、恐怖とその弊害を知らない。そしてなにより、一時の感情に任せて浅はかな言動を行った場合の、「この先どうなるか」という簡単な先読みの思考力と、「こんなことをいわれたらどう思うか」という相手の立場に立って考える共感力が圧倒的に乏しいのだ。

僕は仕事柄、ほぼ毎日人様の身体に携わっている。そうしているといつの日からか、「ここを押されるとどう感じるか」、そしてその「理想的な強弱」というのがほぼ正確に分かるようになった。痛い所を強く押されると痛い。当たり前のことだが、弱すぎても効かない。状態によって適切な圧や強弱というものがある。これを間違えると相手は不快な思いをするし、事故になりかねない。そうならないように、今までのキャリアの中で触覚における「共感力」が僕の中で培われたのだと思う。

もしも自分の「共感力」と「愛情」に自信がないならば、自分の祖父母や両親などの親族をマッサージしてあげるとよい。文字通り「同族」のコミュニティであるからオキシトシンも働きやすいだろうし、マッサージは経験を積めば積む程、触覚における共感力は高まるはずだ。それに相手に喜んでもらえて自分も嬉しければ一石二鳥ではないか。

※(NHKヒューマンエイジ 人間の時代 第2集 戦争 なぜ殺し合うのか)より一部抜粋。