脳と「無常」、カオスと臨床。

この前、NHKで「心とはなにか、脳科学が解き明かすブッタの世界観」という番組が放映されていた。これはとても面白い番組だった。脳外科医であり仏教を研究している浅野孝雄先生と、大学教授で僧侶の佐久間秀範先生との対談が興味深く、最初から最後まで勉強になる内容だった。その中で個人的には「無常」という言葉がとても心に残った。

「無常」とは仏教の言葉で、この世の全ては常に一定ではないという意味だ。人の心も変わるし、身体も老いる。物質でさえ変わる。物質を構成する最小のものは少し前までは原子であると認識されていたが、今では素粒子が最小のものであると言われている。さらにこの素粒子は、ねじれたり、観測している時とそうでない時とで違う動きをしたりしている。つまりは動いていて、素粒子レベルでは一定の箇所に留まってはいない。

この世の万物、そして人の心も無常でありそれゆえに人は苦しむ。常に動いて形が変わっているならば、実体を捉えられないし、そのものにそもそも実体がないともいえる。生きていく上で絶対に変わらない何かにすがりたい、変わらずに揺らがない「実体」の上に安心して生きていきたいという思いから神を信仰する宗教があるのだろう。年を取らないとか、永遠の命とか、いつの世も変わらない教えと導きというような、漠然とした「神の形」とは、いうなれば不変の形を持つ「実体」であり、不変の実体を持つ物こそが神ともいえるのではないか。

番組では、心の起こりについてフリーマン理論が語られてた。

人間の身体には脳を中心としたニューロンと呼ばれる1000億個もの神経細胞のネットワークが張り巡らされている。様々な感覚はそれぞれの感覚器官から脳に入る。全身の情報が電気信号となって脳に伝わるのだ。脳の中では一つ一つのニューロンは独立しているが、互いに情報を受け渡して作用を及ぼし合って活動がまとまり、1秒間に数十回振動するニューロンの集団となる。それは脳のあちこちで起こり、それぞれの場所で自律的に領域を形成する。これをカオスアトラクターという。さらにそれは互いに影響を及ぼし合い、辺縁系を中心に大きなアトラクターに統合される。これを大域的アトラクターという。これが人の「気付き」となる。一秒間に10回、毎回これが出来たり壊れたりする。というもの。

辺縁系で起こっている事は意識には昇らない。無意識レベルで起きる。新皮質の方にくるとある程度意識化される。意識と無意識を合わせた総体的な物が「心」ではないかと浅野先生は言う。

このフリーマン理論は、秩序と無秩序が入り混じった「カオス理論」が元になっている。脳における神経ニューロンのネットワークにおいて一見、何の秩序もないように見えるカオスだが、このカオス状態もある一定レベルに達すると全体が一つの周波数に変化する。全部のニューロン集団が同じサイクル、40サイクルのγ波になる。γ波に収斂されるという事は生体が有する混沌から秩序へという自己組織化の現象と捉える事ができる。40サイクルになる事をアトラクターの形成といい、この小さなアトラクターが色んな箇所で独自にたくさんできてそれが集まったものを大域的アトラクターという。そしてこれが大脳辺縁系で同じ遷移を回って最後に海馬、内臭状皮質に到達して統合される(匂いの場合)。「匂い」一つとっても、眼、舌、鼻、身、意すべての知覚感覚が統合されて出来上がった形であり秩序だ。それが今度は辺縁系と大脳皮質の間で色々な経路を通りながら大脳皮質と相互作用する。

そして、大脳皮質の中に蓄えられていた経験、知識、性格などを織り込んで一緒になったもの、大脳皮質の働きと辺縁系の働きが一緒になったものが大域的アトラクター。「アトラクター」とは統合という意味。ゲシュタルトをベースにした対象についての印象イメージ、表像、それこそが「気づき」。ここで初めて物質的な物が心に結びつく、心的なものになると、浅野先生は語っていらした。

難しいことを書いたが要は、秩序と無秩序を合わせてカオスという事。そしてそのカオスにも長い目で見れば、周期性やパターンが見えてくる事。人間の思考や心は、小さな感覚の受容から始まりそれが脳内の機械的な情報処理と、今までの経験や考え、個人的な性格なども合わさって脳全体を巻き込み一つの「考え、心」が生まれる事。そして生まれた思考はそのうち崩れてなくなる事。それの繰り返しが脳内では行われている事。などというものだ。

世の全ては無常であり、起こったものはいずれ崩壊するという事が色んな意味で重要な事だと個人的に思った。「無常」には、楽しい事や若さはいつか終わってしまう事、生き物はいずれ死んでなくなってしまう事、せっかく買ったお気に入りの物もいつかは壊れてしまうし形が変わる事、せっかく稼いだお金も不変ではない事など、様々なマイナス面もある。

が、しかしプラスに捉える事も出来る。臨床の仕事を生業としている身としてプラスに思ったことは、「辛い症状もいつか終わる」ということだ。どんなに辛い痛みや不定愁訴も、世の理(ことわり)に倣って考えるといつかは必ずなくなるのだ。なかなか治らない難治性の痛みや耳鳴り、かゆみなど様々な症状をお持ちの方もいるが、どうか忘れないで欲しい。「起こったことが永久に続く事はない」という事を。

ここからは自論になるが上記の事をふまえて考えると、身体に生じた病のアトラクターはいつか必ず崩壊する。その病のアトラクターが崩壊するのを待つだけの体力をつけていく事が肝要となる。

あとはただ待つだけではなく、意識的に負のアトラクターの崩壊を早める事はできないだろうかとも思う。

ずっと不定愁訴が出ているならば、その症状を無理やり持続させている、本来変化して崩壊するはずのアトラクターをなんとか終わらせまいと必死で抵抗している「何か」があるはず。その「何か」のせいでアトラクターの崩壊が遅れている、もしくは止まりかけた風車の羽をもう一度動かしている小さな風のようなきっかけの場合もあるだろう。それらのような何らかの要因があると病のアトラクターの崩壊は遅れる。

「病」というものをカオス理論に当てはめて考えてみると、脳、内臓、筋肉、骨、精神などに「秩序あるストレス」と、「秩序なき抽象的なストレス」が合わさり「病」が生まれる。「秩序あるストレス」ならば見つけて早期に追い払う事も出来るだろうが、「秩序なきストレス」は分かりにくい。「秩序あるストレス」とは、仕事などで身体にかかる物理的な外力や怪我、画像診断などで判る体の変化や可視化できる体の情報など。「秩序なき抽象的なストレス」とは、無意識に感じるストレスや負荷、意識していてもよく分からないようなストレスやささいな刺激、言葉でうまく表せない謎の負荷など。いうなれば、病院の検査でも見つからない可視化できない「秩序なき抽象的なストレス」こそが、不定愁訴という名の病のアトラクターの崩壊を遅れさせている「何か」であるのではないだろうか。その「何か」を見つけ出して取り払ってしまえば自ずと不定愁訴にも終わりが来て、病のアトラクターも崩壊するはず。

…しかしその「何か」を見つけるのが非常に難しい。だが「世の全ては無常である」という言葉を信じて、日々患者様が抱える症状の早期改善に力を注いでいきたい。

次のブログに続く。(…まだ書いてる途中)