壊れてしまった、モーツァルト「トルコ行進曲」の修復。と「早弾き」の報い。

モーツァルトの「トルコ行進曲」は言わずもがな有名な曲だ。難易度でいうと「中級」ということになるだろう。ピアノ初級者が慣れてきたころに背伸びして挑戦したくなる曲ではないだろうか。僕はそうだった。ピアノを習って2年経ったあたりに習得を試みたが、意外と早く暗譜することができた。トルコ行進曲は速度こそ速いが、左手が割と単純なので左右合わせて理解しやすいし覚えやすい。

そのころはちょうど中学生だった。音楽室のグランドピアノが弾きたくてよくいたずらしていたことを覚えている。地方の中学校ということもありピアノが弾ける男子はそうそういなく、少し弾けるだけでちやほやされた。それに気を良くした僕は調子に乗って下手なのにトルコ行進曲を「早弾き」した。

「早弾き」とは文字通り曲を早く弾くことだ。熟練のピアニストが例えば、ニコライ・リムスキー=コルサコフ「熊蜂の飛行」を既定の速度よりも速く弾くとしよう。ただでさえ難しい曲なのに「早弾き」の要素が加わるとそれはもう超絶技巧の領域となり、聞き手側に大きな興奮と共に時として感動をも与えるだろう。

熟練のピアニストのように上手に早く弾ききれればいいが、なにせ経験が浅く覚えたての、しかも初級レベルの僕が中級レベルのトルコ行進曲を上手に早く弾けるわけがない。が、下手でもなんでも弾けば周りの友人や同級生は喜んでくれたし凄いといってくれた。

僕が思うに「中学校」というのは、小中高の学校生活の中で一番異質できついイメージがある。学業、上下関係、運動、規律、教員の厳しさなどが小学校のそれとは比べものにならない程グレードが上がる…ように思う。語弊があるといけないが、ある意味で刑務所生活のような中学校の日常の中で、「クラスメイトが有名なクラシックの曲をピアノで弾く」という珍しい出来事だけでも大いに盛り上がる。そこに上手い下手はあまり関係なく、たとえ最後まで弾ききらず途中で止まっても周りはちょっとしたお祭り騒ぎとなり、それなりに喜んでくれたのだ。

そこから、「トルコ行進曲」は最後まで弾かなくても早く弾けば下手でも喜ばれるという脳への刷り込みが行われた。そしてそれは中学校から解放された高校、大学でも続いた(笑)

友人と遊んでいたり買い物の途中に、家電量販店の電子ピアノコーナーやどこかピアノがあるところに立ち寄った際になんと無しにトルコ行進曲を途中まで早弾きする。すると、男女問わず連れがそこそこ喜んでくれる。これに関しては中学校もその後の学生生活もさほど変わりがなかった。別に中学校のような厳しいヒエラルキーや規律がなくとも喜んでくれるという現象についての考察として思うことがある。それは、ただ単に友人やクラスメイト達はピアノに無頓着なのだろうということだ。すなわち演奏の「良し悪し」が良く分からず評価ができないのだ。なので、彼らは自分に出来ないピアノ演奏という特殊技能を、純粋に驚いて称賛してくれたとてもいい友達だったのだと今になって思う(笑)

その当時は当然、ピアノを毎日練習しているわけでもないし、ましてや先生もいない。もしも先生についていたら絶対に「早弾き」は怒られていただろうし、その癖を徹底的に直されただろう。

そして、トルコ行進曲の「早弾き」癖が直らず今に至る。

素人における「早弾き」の何がいけないかというと、「速く弾くことにエネルギーを全振りしてしまう」ということだ。ピアノを演奏するにあたって必要な事柄は①正確な位置に指を置く事、②楽譜の指示を守ること、③感情や情景をイメージして手指の運動にフィードバックすること、④響きすぎないようにペダルの強弱に気を配ること、などだろうか。思いつくのはこれくらいだが、きっと他にもあるだろう。要は、これら複数の事柄一つ一つに脳のワーキングメモリを調節してエネルギーを分散させないといけないのに「速さ」だけに特化するとその他すべてがおろそかになるのだ。

さらに、「ミスタッチしても喜ばれていた」という記憶と経験が、苦手な小節克服及び上達の妨げとなりいつしか「雑な早弾き」が定着してしまう。

1万時間以上ピアノ演奏に携わった人間のことをピアノ上級者というならば、上級者がその気になれば、同曲の同じフレーズを何度弾てもほぼ全く同じに弾くことができるそうだ。その誤差なんと0,5秒くらいらしい。

ピアノ演奏はとても高度な脳と身体の働きだ。簡単にいうと、脳内において運動の計画書を作成し、それを元に運動指令を出して脊髄を介して手指に伝える。その際の微妙なズレや間違いを小脳や運動野がその都度補正して手指の動きにフィードバックする。本来はこのシークエンスを「正しい動きがきちんと出来るようになるまで」何度も何度も繰り返していかねばならない。なのに僕の場合は、間違った動きを脳と手指にラーニングさせてしまい、こともあろうに小脳と運動野の補正も厳しくは追及せず捨ておいた。その結果、手指が上手く動かない状態が当たり前となってしまったのだ…。

何度弾いても何度弾いても、同じように速く弾いてしまうし、同じところでつっかえる。テンポやリズムを変えたり、部分的にゆっくり弾いてみてもその癖はなかなか取れない…。それほどまでに深く癖が根付いてしまっているのだ。

主にトルコ行進曲のどこの部分がだめかというと、まあ全体的になのではあるが、32小節目からが特にスムーズに弾けない。ここはトルコ行進曲の中盤部だ。前半の馴染みのメロディーから雰囲気が変わり、右手がとにかく忙しくなる。さらに41小節目からがキツイ。タララララララ「タ」「タ」ララ「タ」「タ」ラララ…の「タ」が二度続くところが弾けない(笑)読んでいる方はなんのことか解らないだろう。でも、いい。しょうがない。申し訳ないがこのブログはこのようなスタンスで書いていく事とする(笑)もし知りたかったら試しに楽譜を持ってきて弾いてみてほしい。

別に同じ音が二度続くくらい簡単だと思うだろうが、手指が固まってしまって素早く二度「タ」「タ」と弾けないのだ。過去から今に至るまで、ここの部分で細かく正確な随意運動が出来るように根気よく小脳と運動野の補正を怠った証拠だ。

ピアノにおける難しい部分の技能習得にはとにかく「根性」が大切だ。北海道のHIPHOPアーティストのTHA BLUE HERBは作品を作るにあたって、「残酷なまでに手を抜くこと事を知らず…」と述べているが、まさにこのスタンスこそが大切なのだ。

ところで、32小節目からが大変だと書いたがこの部分、華やかで忙しい右手が主役のようで実は、左手が重要なのだと最近気づいた。

トルコ行進曲の左手は、「ト タ タ タ 」 「ト タ タ タ」…と続く、いわゆる「マーチ」のリズムだ。この左手でどこにアクセントを置くかというと、最初の「ト」の部分だ。ここに上手くアクセントを置きつつ、あえて右手を抑えめに弾く事で非常に上品で情緒的になると僕は感じている。ピアニストの中村紘子さんが仰るには、「トルコ行進曲を弾く際に、感情を入れすぎてショパンの曲の弾き方になっている人がいる」と。トルコ行進曲は「マーチ」であり、「鼓笛隊の打楽器のように規則正しくも力強い」という部分を意識しないといけないみたいな話を聴いたことがある。

やりたいことや、表現してみたいことがトルコ行進曲にはたくさんあるが、まずは壊れてしまって変なクセがついた部分を直していかねばならない。どうやって直すかというと、①「あえてトルコ行進曲から離れる」②「苦手な部分をスローテンポのメトロノームに強制的に合わせて覚えなおす」。というこの二つしか今のところ思いつかない。

①の「あえてトルコ行進曲を離れる」というのは、様々な曲を練習して基礎的な力を増してからもう一度戻ってくるというものだ。しかしこれは戻ってくるまでもしかすると、数年かかるかもしれない…。②の「強制的にメトロノームに合わせる」というのは、今までの壊れたトルコ行進曲は別物と捉えて一度壊して忘れ去り、ゆっくりのテンポでもう一度最初から指と脳にトルコ行進曲をラーニングさせるというものだ。これは上手くいくと数ヶ月くらいで正しくトルコ行進曲が弾けるようになるかもしれない。

それでもどうにもならない時は、③「先生に習いに行く」という選択肢もある。…壊れたトルコ行進曲の修復にはこれが一番ベストな選択肢かもしれない…(笑)